赤沢康平
赤沢 康平(1863年8月1日〈文久3年6月17日〉 - 1934年〈昭和9年〉[1])は日本の実業家。旧・徳島藩士[4]。 経歴徳島県出身。父を貞衛といい通称以與治、青圃と号し漢学に精通[4]し、康平はその二男[4]である。 明治12年(1879年)8月、16歳の時郷里を去り東京に出て、同年10月電信局製機所に入り庶務に従事し兼ねて物品の出納を掌り職工を監督する[4]。傍ら芝区修成館に於いて英語漢学を研修[4]。同14年事故により辞職[4]。 発明家初代田中久重に聘せられ 電気機器の発明模造に関係する[4]。同15年工作局に入り同局が廃止されると残務整理の任に当り終局まで全うする[4]。同16年鉄道局新橋会計課に入り会計検査を担任する[4]。同年本局に転勤鉄道長官の秘書役となり、以来15年間鉄道本局に在勤し庶務監査鉄道会議掛を兼ね担任する[5]。 同30年其職を辞し日本鉄道会社に職を奉じ会社の主事となり岩越鉄道会社の嘱託を受け主席事務員に挙げられ庶務会計倉庫等の要務を統掌したが、同31年事故により日本鉄道会社の主事並びに岩越鉄道会社の嘱託を辞し土木請負事業に従う[5]。同32年[2]山陰西線鉄道の起工着手されるに及び、伯耆米子町に来て居を構える[5][2]。 人物像康平は、邸内に造った弓道場で毎朝弓を引いたといわれる[6]。 『鳥取、島根官民肖像録』(明治45年、深田豊市編)によれば康平は「今や山陰に於ける土木請負者の重鎮として聲望を博する豈に偶爾ならんや」という。 昭和11年(1936年)7月に米子市朝日町通りで夜店市を開いて景気を盛り上げようという計画があった[3]。この夜店市を計画したのは西倉吉町の朝日町通りの建設業赤沢康平だった[3]。昭和初年からの不況が長引くので商店街に活気を呼び戻そうと夜店を出すことを思い立ったという[3]。しかし満州事変以来大陸戦線が広がり「戦時下夜店市はいかがなものか」ということで陳情は預かりとなり実現せず今は「幻の夜店市」となった[7]。 参考文献関連史料所得額三千円以上の人々国税営業税納入者名と対照して検討すべき資料として『郡勢一斑』から見積り所得額(所得税から各税率によって換算した額)三千円以上の人々の名を掲げておく[8]。大正4年(1915年)である[8]。
大正5年(1916年)刊の『陰陽八郡一覧』によって、国税二十円以上の納税者をみると、米子駅前通りと考えられる成実村では、
脚注 |
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