坂口惣五郎坂口 惣五郎[1](さかぐち そうごろう、1870年12月25日(明治3年11月4日)[1] - 1939年(昭和14年)3月17日[2])は、日本の政治家、実業家。米子市会議員[1]。カギさ醤油醸造元坂口商店取締役社長[2]。族籍は鳥取県平民[3]。 経歴鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身。木綿商・坂口平吉郎の四男[4]。生家は木綿問屋[5]。1902年、兄・平兵衛方より分家をする[4]。会社の重役である[6]。 坂口商店代表取締役[4]、日本製絲、山陰水産、米子電車軌道、米子製鋼所各取締役[6]、博愛病院監査役[6]、有限責任米子信用組合第二代組合長[7]などをつとめる。 1907年から1911年まで米子町収入役をつとめる[1]。町会及び市会議員として自治振興に尽瘁する[1]。多年学務委員を兼ね教育設備の進歩改善を図る[1]。1934年、米子市功労者旌表規定により、市会の議決を経て功労章及び木盃一組を贈られ、その功労を表彰される[1]。 病気療養中のところ薬石効なく1939年3月17日に米子市久米町の自宅で死去した[2]。葬儀は19日午後1時から4時までに心光寺において告別式が執行されたが、業界関係者多数の参列があり盛儀であった[2]。 人物実業家坂口平兵衛の弟[3][6]、坂口豊蔵の兄[5]。坂口二郎は兄・坂口平兵衛の娘の夫である[4]。 坂口惣五郎について、『商工資産信用録 第25回』には「職業・雑、調査年月・1923年4月、正身身代・O、信用程度・B」とある[8]。 『商工資産信用録 第28回』には「職業・雑、調査年月・1927年8月、正身身代・L、信用程度・A」とある[9]。 『商工資産信用録 第33回 中国四国版』には「職業・雑、調査年月・1932年7月、正身身代・M、信用程度・A」とある[10]。 『商工資産信用録 第38回 中国・四国版』には「職業・会社重役、調査年月・1936年6月、正身身代・M、信用程度・A」である[11]。 『西伯之資力 大正11年10月調』によると、坂口惣五郎の地価所有高は「1450円82銭」、所得税は「401円」である[12]。鳥取県在籍で、住所は米子市久米町[2]、同市尾高町[4][6]。 家族・親族
脚注
参考文献
関連項目 |