永瀬 義春(ながせ よしはる、1905年(明治38年)3月 - 1988年(昭和63年)12月)は日本の実業家。元永瀬石油代表取締役会長[2]。全国生コンクリート協同組合理事[3]。
永瀬石油社長永瀬正治の父。
経歴
米子中学校に学ぶ[1]。
1981年(昭和56年)永瀬石油代表取締役会長[2]。
山陰地区生コンクリート(協)理事長[2]、鳥取県生コンクリート工業組合理事長[2]、鳥取県地方労働基準審議会委員[2]、鳥取県石油(協)理事長[3][2]、米子西部自動車学校理事長[2]、鳥取地方裁判所調停委員[3]、鳥取県西部砂利生産販売(協)理事長[2]、米子ロータリークラブ会長などを歴任[3]。
人物像
昔の油の商売について
永瀬によると、
- 「米子はもちろん、境方面へも大八車で油卸しをしましたが、境に行くときは、初日は和田くらいまで、弓浜部のお得意さんを回り、境に着くのは二、三日がかりでした[4]。おじと二人で出かけました[4]。雪の日は、そりゃあえらかった[4]。わらじばきで、足は冷たいし、ほんとにつらかった[4]。
- 自動車のある今と違って、列車で上石見まで上がり、あとは自転車で福栄、生山を回っていったん米子に帰り、次の日は、生山から矢戸、多里、山上、阿毘縁なんかを途中で一泊して回ったものです[4]。
- 大正時代、米子の油店は、私の店のほか、益尾さん、上田さん、塩川さんなどがあり、私のところが英国系のライジング社で、ほかの方は、ニューヨーク・スタンダードでしたねえ[5]。」という。
賞
勲五等瑞宝章[2]、鳥取県中小企業団体中央会功労表彰[2]、全国石油(協)連合会特別功労表彰[2]
家族・親族
永瀬家
(島根県簸川郡斐川村[6]、鳥取県米子市尾高町・米子市宗像[3])
- 永瀬によると「私は、家の過去帳によると六代目だ[3]。父・久之助が、明治二十年ごろ米子に来て商売を始めて、もう八十年近く地域のお世話になっている勘定になる[3]」という。
- 父・久之助が、油や化粧品の製造卸しをしていた梶谷芳芬堂に奉公した後、1909年(明治42年)に独立して、尾高町に店を出したのが始まりである[7]。初めは、髪油、種油、灯油などを扱った[7]。店を出してしばらくしてからはロウソクが主な商品になった[7]。
- 1913年(大正2年)ライジングサン石油株式会社と特約店契約を結ぶ[8]
- 1939年(昭和14年)合名会社永瀬久之助商店設立[8]。1950年(昭和25年)株式会社シェル石油松江発売所と合併し、資本金250万円となり、社名を株式会社永瀬石油店と改称[8]。取締役社長に永瀬義春就任[8]。1965年(昭和40年)8月30日商号を変更して永瀬石油株式会社となる[8]。
- 1935年(昭和10年)6月生 -
略系図
参考文献
- 『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年 434頁)
- 『私の交遊抄(中)』 (編集 - 朝日新聞鳥取支局、1989年)
関連
脚注
外部リンク