太田窪
太田窪(だいたくぼ)は、埼玉県さいたま市南区及び緑区の町名。現行行政地名は太田窪一丁目から五丁目及び大字太田窪。二・四・五丁目及び大字が南区、一・三丁目が緑区に属する。大字を除く町丁は住居表示実施地区[5]。郵便番号は南区が336-0015[2]、緑区が336-0936[3]。 地理埼玉県さいたま市南区及び緑区にまたがる藤右衛門川に沿って北西から南東に長い区域を有する。地区は大宮台地(浦和大宮支台)上に位置する。中央を南北に埼玉県道35号川口上尾線(産業道路)が通っている。住居表示は太田窪一〜五丁目まであるが、南区内にはまだ住居表示未施行の大字太田窪となっている地区もある。円正寺地区を越えた飛地もある。住居表示が実施されているところは、ほとんど住宅地に整備されている。大字部分を含む全域が市街化区域に指定されている[6]。大字部分には生産緑地地区も見られる[6]。 さいたま市南区大谷口・大谷場・円正寺、さいたま市浦和区前地・本太、さいたま市緑区原山、川口市伊刈・柳崎・芝と隣接する。 小字明治初年の小字は、道祖土組・大在家・諏訪入・本村・善前南・善前北・新田・不動入・大島・下組・前耕地[7]。 河川・湖沼地価住宅地の地価は、2022年(令和4年)1月1日の公示地価によれば、太田窪三丁目2-16の地点で24万8000円/m2となっている[8]。 地名の由来もともと大田窪村であったが、江戸時代の天保八年皆済目録に代官が村名を書く際、書き誤り、それ以降太田窪と村名が変わって現在に至るまで地名が訂正されることなく使用されている。 ダイタクボの語源はダイダラボッチ伝説に由来し[9]、ダイダラボッチの足跡であると云われている 。 歴史もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡木崎領に属する太田窪村、古くは戦国期より見出せる足立郡のうちの大多窪であった[9]。太田窪は古くは大田窪、大多窪とも書かれた[10]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では483石余(田278石余、畑205町余)、『元禄郷帳』では645石余であった[9]。助郷は中山道浦和宿に出役していた[9]。村の規模は東西37町、南北5町で、化政期の世帯数は130軒であった[9][10]。大谷口村に飛地を領していた。
旧浦和市の中央からやや東側に位置している。 世帯数と人口2017年(平成29年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[15]。
交通鉄道
道路
地域内を運行するバス路線
南浦和駅発着バス路線(国際興業バス)
地域寺社・史跡
公園・緑地
施設
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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