| 現在市井の人はペットの死に伴う家庭環境の再構築のため、ウィキブレイクに入っています。このため、ノートページでのお返事はできません。復帰予定日は2023年10月末ごろです。 |
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| この利用者は利用時間帯が不規則です。 | |
| この利用者は柔道二段です。 |
| この利用者は日本の伝統的な民間信仰に基づく石造物等の前を通りかかる際、一礼するよう心掛けています。 |
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市井の人(しせいのひと)とは、庶民のこと。昔、中国で井戸のある場所に人が集まり、市 (いち)が成立したことに由来する[1]。市民といった左翼的なニュアンスを持ちがちな言葉と区別する意味で、ニュートラルな人々を表すときにしばしば使われる[2]。
なお、一時期プライバシーアカウントのKKRHM(菊理媛の略)でも編集を行っていたが、事情が変わってしまい使い分ける理由がなくなったため、活動をやめている。
メモ 道に迷ったら、どっちへ行こう。日本語では「東、西、南、北」、中国語では「東、南、西、北」、英語では「北、南、東、西」と言う。これに順番どおり4、3、2、1とポイントを付与してみると……東が10、西が6、南が8、北が6、つまり東、南、西=北の結果になった。不思議とこの順位で行動している気がするので、下手に占ったり未知の道を探訪するよりは過去を振り返ってなんとなく進めばいいと思う。
感謝 2022年12月26日、東村山市ホームレス暴行死事件が新着記事に選ばれました。投票所にて推薦・投票、また、編集にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました。
- 新規作成記事
- 市井の人
- 1. 柳家海舟 / 2. 池袋本町電車の見える公園 / 3. 福井麻衣 / 4.武井美男 / 5. 秋本久雄 / 6. マデリン・スチュアート / 7. 任侠野郎 / 8. 敷山哲洋 / 9. 東北医療器械 / 10. 月光 (映画) / 11. 脊髄動静脈奇形 / 12. 日本報道検証機構 / 13. ヒルドイド / 14. サンディ・ダンカン / 15. ニューヨーク・パパ / 16. 幸福への招待 / 17. 友鵬勝尊 / 18. あの橋の畔で (1972年のテレビドラマ) / 19. ドン・ソーンラビアブ / 20. テイスト・オブ・ハニー (バンド) / 21. アンドレア・トゥルー / 22. ミケール・ブラウン / 23. アニタ・ウォード / 24. デニース・ウィリアムス / 25. ジョージ・マックレー / 26. 世界一キライなあなたに / 27. アパポーン・ナコンサワン / 28. 黒田卓也 / 29. 式町水晶 / 30. 夜霧のしのび逢い / 31. ヘブンリー・ボディーズ (映画) / 32. 瀬取り / 33. リチャード・アンソニー・ヒューソン / 34. ナコンラチャシマ銃乱射立てこもり事件 / 35. 女子大生の下半身 な〜んも知らん親 / 36. 田村友一 / 37. 向山製作所 / 38. 山岡強一 / 39. 熊久保勅夫 / 40. 山本久美 (実業家) / 41. チェイスンズ / 42. ヴィクトリア・ヒューズ / 43. 段原一詞 / 44. 革命の子どもたち (2010年の映画) / 45. ウラジーミル・マケイ / 46. 東村山市ホームレス暴行死事件
- KKRHM
- 1. 馬油 / 2. 海原純子 / 3. 平野かよ子 / 4. 辻村みちよ / 5. へるす出版 / 6. 高柳和江
- 主な加筆記事
- 市井の人
- 1. 太田エイミー / 2. 野原弘司 / 3. 赤い玉、 / 4. 川嶋志乃舞 / 5. 油井亀美也 / 6. 向日葵の丘・1983年夏 / 7. 青柳幸一 / 8. 庄野直之 / 9. 爆買い / 10. タイヘイ / 11. 宮澤博行 / 12. ジャッツ タッコーラ / 13. はな子 / 14. Clap / 15. 小林和男 (政治家) / 16. 青年の樹 (1977年の映画) / 17. 長友朋子 / 18. サンライズ工業 / 19. 干野宜大 / 20. 笠間稲荷神社 / 21. 大和市役所 / 22. 知念沙也樺 / 23. 福岡良子 / 24. T字路s / 25. エイリアンハンド症候群 / 26. サラ・シーヴォン / 27. 米沢紬 / 28. 秋元司 / 29. テレンス・リー / 30. 増岡厳 / 31. 橘さり / 32. 藤岡拓太郎 / 33. 内堀醸造 / 34. 木下富美子 / 35. 吉村元希 / 36. 新井重治 / 37. 小室圭 / 38. DAIZ / 39. 那須サファリパーク / 40. ツバメ・イータイム / 41. オキシライトPRO / 42. 塚本勲 / 43. キエフ / 44. 山下八洲夫 / 45. 重信メイ / 46. 森川清治郎 / 47. 叶姉妹 / 48. 小野田紀美 / 49. 金雄鎔 / 50. ヤン・レッツェル / 51. マリア・コレスニコワ / 52. 藤原しおり / 53. 美住町 (東村山市)
- KKRHM
- 1. 尾木直樹 / 2. キョン
- その他
- 市井の人
- 1. Wyvern (プログラミング言語) / 2. 中島伊津子 / 3. 劉洪友 / 4. つくし飴 / 5. 桜丘ショコラ / 6. 武貞秀士 / 7. 幻の下宿人(リダイレクト化) / 8. うたごえ運動 / 9. 沖縄県立浦添商業高等学校 / 10. 新・白鳥の湖 / 11. 座間9遺体事件 / 12. 貴船汐音 / 13. ほまれ酒造 / 14. コザクラインコ / 15. 長谷川豊 / 16. 五山送り火 / 17. 佐々木李子 / 18. 竹内結子 / 19. 三浦春馬 / 20. 木村佳子 / 21. 慶應義塾大学 / 22. 創価学会 / 23. ヘイリー・ミルズ / 24. ユナイテッド航空 / 25. めいらくグループ / 26. 船本洲治 / 27. 情熱物語 (ドナ・サマーの曲) / 28. ロン・ジェレミー / 29. チャールズ・リンドバーグ / 30. ハワード・ヒューズ / 31. 異状死 / 32. 明石花火大会歩道橋事故 / 33. KyivNotKiev / 34. 山田晴通 / 35. 遠藤憲一 / 36. 矢田稚子 / 37. G. M. ナイル / 38. 飯塚浩彦 / 39. 神谷万丈 / 40. 岡部芳彦 / 41. 青空球児・好児 / 42. 名取弘文 / 43. ニフティサーブ / 44. 竹内まりや / 45. ナメコ / 46. 森友学園問題 / 47. 三村渉 / 48. 片山竜二のおはよう文化放送です / 49. 箕輪はるか / 50. 松下新平
- 市井の人サブページ
/ミハイロ・ポドリャク関連
/ロシアへの入国禁止の対象となった日本の63人
/ウクライナの首都の呼称はキエフかキーウか
/備忘録(削除依頼など)
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Wikipedia:案内文の文例
Wikipedia:ツール
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「雄弁は銀、沈黙は金」
日本語版ウィキペディアに雄弁は銀、沈黙は金の諺の記事が割と最近作られた。元記事のen:Speech is silver, silence is goldenはWikipedia:良質な記事に選ばれているが、ページの長さが6,497バイトというあたり、記事の体裁からして内容どおりなのであった。記事中にもあるが、これはそもそも旧約聖書のs:箴言(口語訳)#10:19における「言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある。」などの非難の的となることへの戒めを言っている。
中立的な観点の方針は「交渉の余地のないもの」
とあるように日本語版ウィキペディアのルールはWikipedia:中立的な観点に基づかなければならず、原則以上に絶対なのである。中立的な観点はまた、大岡裁きのような別の観点による妥協点を認めない。議論における落としどころは、けっきょくは「百科事典的内容」が中立的な観点に沿って反映されるかが重要であって、Wikipedia:中立的な観点#情報源が内包する偏向では「事によっては、情報を完全に除外したほうが記事の改善に資することもあるでしょう。」ということも言われている。つまり沈黙は、別の観点に出る幕を与えないための中立的な観点のワイルドカードでもあると言える。
結果論と心得は異なる
他にも各種方針・ガイドラインで言われている無視、放置、スルー力は相手というのがあってこその共同作業であるわけなので、因縁であるとか距離の問題になってくる。やったことについての説明責任に関しては、表面的な取り繕い、いわゆる上滑りであるとみなされては本末転倒なので、それならスルーのほうがマシというのは心得ではなく結果論からになるが、逆に説明過剰でも感情をあらわにしたりセルフ・ハンディキャッピングなど論外ということになる。自身に対する個人攻撃を事あるごとに訴えるのも、経過を追うとセルフ・ハンディキャッピングの前段階であることが少なくない。
ひっつき虫ではありませんか
まず先に、ウィキペディアはWikipedia:多重アカウントなどで言われる「監視逃れ(投稿記録の分断)」という概念があって、何も権限保持者に限らず利用者間の相互監視が認められているのを断わっておく。しかしながら、それも場合によってはWikipedia:井戸端/subj/特定の利用者によるつきまとい行為についてのように感じたり、傍から見ていてそう思えたりすることがあり、Wikipedia:再出発の方針、いわゆるクリーンスタートの理由にならないわけでもない。そうなると、SNSでひっつき虫のような嫌な相手をブロックして乗り越えるといったような対策も別世界のことと言えて途方に暮れてしまうのではないだろうか。だが、もしもそう思えたらウィキペディアが人と話の出来るメディアだと勘違いしていないか、自分と嫌な相手のどちらの問題であるかを周りがどのように思うか、それを確かめるのに履歴は嘘をつかないのだという自覚が要るように思う。その上で「つきまとい」としてブロックされていった利用者がこれまでに数知れずいたのは、やはりその存在が目的外利用かつ特異であったとの周囲の判断にゆだねられていたのを、振り返ってみたい。
目的外利用(者)とは何ではないか
「目的外利用」というと、Web等では目立った使われ方がされているのが個人情報などの情報に関する取り扱い上の注意喚起のようである。辞書的には後述する「目的外使用」とあわせてgoo辞書やコトバンクには該当する項目はない。しかしながら、WeblioにはWikipedia:井戸端/subj/「新語時事用語辞典」と「実用日本語表現辞典」では非推奨とされている媒体ではあるものの、「実用日本語表現辞典」による「目的外使用」としての以下のとおりの解説があった。
当初の目的とは異なる用途に使うこと、想定された以外の目的に使用すること、などの意味の表現。「目的外利用」と呼ばれることもある。
— 実用日本語表現辞典[3]
今世紀になってからはインターネットの普及により、たとえば「誹謗・中傷」を誹謗中傷のように四字熟語扱いするような変化に対応させた、大辞泉[4]などゆるい傾向のものもあるにはあるが、さらに定義づけのほうで混乱を避けようと踏み切り、一般論で押さえているという位置づけになるのであろうが。
日本語版ウィキペディア内ではWikipedia:投稿ブロックの方針#宣伝・広告投稿、目的外利用にある「百科事典を作るという目的から外れた意図で編集」を指して言うのであるが、当該節の全体からすればWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説台、広告宣伝の手段ではありませんに相当するものの、なぜかリンクはされていない。この「目的外利用」を字面だけ読んで単に示しても始まらないというのはあるが、実用的には管理者が裁量ブロックをする際にIPであれば1か月程度、アカウントユーザーであれば無期限とする理由には欠かせない。当該節ではまた、Wikipedia:井戸端/subj/目的外利用者はブロック対象ですか?へのリンクが冒頭に挿入されガイドライン的な参照を促しているが、パッと見では盛んな議論が行われたとは言い難いのではないかと感じてしまうのを、よく読めば反省させられるほど簡潔な意見の中に重要なポイントが示されていた。まず、Wikipedia:ウィキペディアに参加する#執筆以外での協力というのもあるのだと、いわゆる貴賎を否定するように断ったうえで、具体的には「ノートでの議論のための議論や演説ばかりで、コミュニティを疲弊させる利用者」が挙げられていた(そこでは触れられていないがWikipedia:エチケット#ノートページの濫用を避けるためにはなどを根拠にしていると考えられる)。個人的にはWikipedia:井戸端/subj/管理行為のみ行う利用者を「目的外利用者」と断じることは妥当なのか?のほうがよほど盛んな議論が行われた形跡があると感じるのだが、「ろくに記事を書いたことの無い人間が(この場合今現在書いているかは問題では無い)、記事について、或いは方針の解釈や削除の妥当性などについて正しい判断が行えるのか?」「低品質の管理行為」というほうに話がいき、その後わかりやすいところでは、2015年夏に平行して進んだWikipedia:投稿ブロック依頼/Naitou1980、Mmmtry、Sdzwでは「低質な管理行為」、Wikipedia:投稿ブロック依頼/Nanafa 08072015 追認では「目的外利用」として、ブロック審議の総意が分かれたのをよく覚えている。
居候という概念
日本語版ウィキペディアには利用者:Five-toed-sloth/居候は分をわきまえてという私論がある。最初に拝見したのはけっこう前なのだがどこだったか忘れていた。なのでリンク元を開いてみると、前述「Wikipedia:投稿ブロック依頼/Nanafa 08072015 追認」にてikedat76氏が当該私論を示してトリを務めていたのを思い出した。そういう考えがあって支持している方がいて、紹介される場面があったということなだけであるが。個人的にはWikipedia:日本中心にならないようにがあるからには、「居候」という江戸時代のおそらく儒教的観念とは別なんだろうと、#方針文書から抜粋した上での私論で言った「ウィキペディアの記事は英語版を中心に各言語版への均等な翻訳記事の作成が最優先されるのが大前提にある」のほうにシフトさせて考えている。それはさておき、上でも言ったが「いわゆる貴賎を否定する」のはもっともでも、言い方によってあるいは言われた人の捉え方によっては、Wikipedia:礼儀を忘れない#例で「礼儀を欠いた状況を生むささいな事例。」とされる『「個人攻撃をするつもりはないのですが、……」とはじまるコメント。』同様に意識する、断りを入れるとかえってまずいのではないかといった感じになる。これをセンシティブな設定と考えれば、やるべきこと云々と言うより、いくら方針・ガイドラインを盾にとっても、たぶん発言の根拠に出来るのは、その人の「疑似」「基本」「カスタム」「拡張機能」それぞれの要となる名前空間の投稿記録相応なのだろうとの結論である。
内容の濃い井戸端の過去ログ
焙煎ガイドライン
方針文書から抜粋した上での私論
ローカルと少数派の関連、少数派と宗教
- 金光教本部教庁内にある金光教徒社が発行する金光新聞[5]に西丸四方による精神医学の解説書『異常性格の世界』では「変わり者とは、その時代その社会における、極少数派のことだ」との規定が載っていると紹介がある[6]。金光教については神道系の新宗教とされるが、同項目では1990年の文化庁による資料を出典に「約40万人の信者を有する。」ということになっている。他方でエホバの証人#信者数では出典不明であるが「日本においては2020年度の最高伝道者数は212,683人であり、」とされていた。数で言えばおそらく日本国内では金光教のほうが多く世界的な歴史でもやや先に成立している。日本に限るとエホバの証人の伝来を意味する灯台社の結成が約百年前であり、金光教はそれよりも70年近く前の成立であったので、時代の変移を通過してきている伝統はそれなりに有するとすることもできる。しかしながら日本語版ウィキペディアにはWikipedia:日本中心にならないようにのようなWikipedia:中立的な観点の方針解釈の文書が存在する。明文化されているとはいえ方針・ガイドラインからは漏れた草案にとどまっているが。これに基づくと少数派の中でさらに格付けをすることは躊躇われる。
- もっとも「日本中心にならないように」とは言いかえれば、ウィキペディアの記事は英語版を中心に各言語版への均等な翻訳記事の作成が最優先されるのが大前提にあるのだから、自虐的には居候としてわきまえる部分があるのかもしれない。その一方で東北地方太平洋沖地震のような項目は各言語版の編集者が翻訳の構えにあったとも取れ、ローカルにおける加筆の停滞は混乱を対策しつつ避けるべきとジミー・ウェールズが直にノート:東北地方太平洋沖地震/過去ログ1#Hello_from_Jimbo_(Wikipedia日本語版へのメッセージ)で訴えていた。このローカルと少数派の関連は「あるところ(地方、国、民族等)に固まっている」ことが複雑にしていると思えるのだが、グローバルな求め方とは別に自治によるその中の中立的な観点があって然るべきと考えている。ちなみに私が別アカウントで作成した辻村みちよの項目は英語版で翻訳され(なお、履歴継承はない)その後、現在まで他に4つの言語版に及んでいるが、探せばこういう脈はもっとあるように思える。
- 話を少数派と宗教に戻す。日本語版ウィキペディアにおいて早くからキリスト教関連の項目に「エホバの証人では」などとするのを極力排除してきたのは納得している。一方でカトリック教会、聖公会、プロテスタントと並べて「正教会では」などとあるのは個人的に違和感がある。どうしてだろうと自分なりに考えてみたら日本には神学校はともかく、東方教会系の教育機関がなかったように思うというのがあった。教育機関というのは信者だけで固まっているわけではなく、その分一般的であり、仏教関連の項目に「浄土真宗では」とされても系列の教育機関がいくつもあるのだし、また特異な面に気を取られることなく信者数で言えば少数派とはならないため、他宗派との違いを把握しておくことは人間関係にも役立つ。それに比べて「正教会では」ははたして日本語版ウィキペディアでどれだけ有用なのかと思わずにはいられない。キリスト教に興味をおぼえ西方教会と区別がつかないまま礼拝に通ってみたら、「いやうちでは奉神礼と言います」と正されるのに備えても個人レべルの有用性であり実用的であるか疑問だ。
客観的に見て深刻な害がなければ慌てながら死守することはない
- Wikipedia:編集合戦は日本語版ウィキペディアでは誰にでも出来る管理作業、荒らし対策の解説とのカテゴライズだが、英語版Wikipedia:Edit warringでは利用者の行動についての方針、プロジェクト理念に反する問題利用者の類型といった感じになっている。これが本文では逆転して日本語版ではセンシティブな問題には触れず、英語版では荒らしに関する言及があるので言語間の釣り合いが取れているのかもしれない。そもそもこれはWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは戦場ではありませんと直接関連付けてもよさそうだがそうでもない。ともあれ編集合戦やその一歩手前に走りがちな動機には大義名分に荒らし対策があるのだろうが、それだけに正当な理由を伴っても荒らしに加担しているかもしれないとの自覚は要る。いくら自分が荒らし対策と信じて疑わず方針に基づく理由を要約欄に記入しながらでも、傍から見ると意地の張り合いにしか思えないケースが多々あるから、そこを要領よく振る舞って自分から差をつけることこそ基本方針の精神であるし心得だと思う。
- そこで一旦はいわゆる放置プレイも選択肢にあるということなのだが、この場合、法的リスクのある内容の書き込みや管理の行き届きが疑われる悪戯、プロパガンダの放置とは異なり、客観的に見て深刻な害がなければ慌てながら死守することはないし、記事として脈絡が不自然以上に破壊されたり、同じ識別名の脚注リンクがはぐれて脚注エラーを起こしていたとしても、そこだけ修正しておいてすぐには復帰しないことで十中八九相手は満足しているのを感じ取ってはいた。とにかくこっちも完璧を求めようとすればするほど相手の思うつぼにもなるので、たとえば端末の画面から離れてウィキペディアを忘れてみたり、別の編集や他のネットの活動、異なる趣味に頭を切り替えてみるのも、おかしな因縁から自分を取り戻す有意義なことだと思っている。そうすると不思議なことにしばらく経ってその記事やノートに戻ってみると、かつては当事者で嫌な相手だと思っていた第三の利用者がこっちのかゆい所に手が届くような間接的協調を見せて解決してくれていることさえあった。
- それから、掲示板のレスでもウィキペディアのノートや会話ページその他の話し合いでも、一つのトピックないし特定の相手との絡みの中で自分の書き込みが常に最後にあって、それをもって結論になっているということにしないと延々とつきまとう輩がいる。これは心理的には自分の書き込みの下は反論でしかなく、中には応答自体に恐怖心があり過剰な反応をおこさざるを得ない病的な要因がもたらす、そういうケースもあるのだろうと思っている。それと同じで編集を押し通そうとする輩も常に自分のが最新版であることに拘り、しばらくは更新に張り付いているのが想像に難くないので、こういう時こそある程度のスルー力がいるのであろうと思っている。これが明らかな荒らしと判断した場合、単に構ってもらいたいなら構うまであの手この手で荒らすので管理者も動きやすいが、荒らしとするのには微妙で方針無理解の自覚がなかったり、どっちもどっちの関係で互いに荒らし対策と信じているケースであると、構ってあげれば癇癪を長引かせるだけなので次に抜粋したWikipedia:礼儀を忘れない#悪影響を軽減させるの要領が最も効果的に思える。
不快なコメントには返事をしない。それらのコメントは忘れる。その編集者を許す。争いを激化させない。
無礼を無視する。無礼者が存在しないかのようにやりすごす。無礼者とコミュニティの間に「壁」をつくる。
仲間集団圧力を掛ける。不作法や無礼が起こる度に不快を表明する。
— Wikipedia:礼儀を忘れない#悪影響を軽減させる
なだめるとかえって逆上、調子づく輩もいる
- 上の3つのくだりは1つ目がなんとなく新約聖書に顕著なキリスト教的宗教観を思わせるが、よくよく考えてみるといつまで経っても日本を許せない隣国と日本の違い、さらに領土問題も絡めた戦争の放棄に基づく日本の事情とも重なるので素直に受け入れられる選択肢にあってもいい。2つ目はいわゆるスルー力の徹底にはなっているが、一つ間違えばシカトといったいじめのやり方にもつながるし、最後のほうは強制的に受けてもらう活動制限を避け生殺し状態にしろというのだから、それでいいのかという疑問は残る。しかしながら、現実世界では村八分など小規模の集団であれば徹底されてしまうことはあっても、大規模でコミュニティを形成しているとなると徹底は困難で、必ずといっていいほど対象者と通じる八方美人がいる。一方でシカトが増えればそれらがつるんで派閥を作ったり下手をすると逆襲を企てることも考えられる。よってパフォーマンス的にはあまりよくないとの結論である。
- スルー力についてはグロービス経営大学院大学が運営するサイトのコラムで“鈍感力”と言い変え、「ストレスになりそうな外部情報を自分の中で貯めこまず、上手く受け流す力」「あくまでスキルとして、発揮する場面としない場面を見極め、自身でコントロールしながら戦略的に使っていくもの」との見方が書かれていた[7]。上で「八方美人」について触れてもいるが、誰からも悪く思われたくない、という心理は多少の差こそあれまったくないほうが変わり者であろうし、日本語版ウィキペディアにおいては信任にも影響のある人気をよりどころとする管理者の一部に強い傾向があるのは、外部の活動を見れば一目瞭然なことでもあると見ており、つらいところである。中にはプロジェクトや技術的な都合とも言えるのだろうけどわざわざ問題利用者を懐柔したり、度重なる審議の結果ようやくお引き取りいただいた利用者のブロック解除の慈善に積極的な例もあったから、「自身でコントロールしながら」と“使えるもんは使っておけ”の区別は容易でなくなることもある。
- 3つ目は「仲間」とは言ってもミートパペットの容認ではなく、考え方の違いに対する同調圧力の推奨でもないのは当然だが、前提として大きく分けると、日本語版ウィキペディアの方針やガイドラインに基づく判断力の欠如だけでなくそれ以前の一般常識に難があるなどの要因で対話が成立しないのと、議論慣れを嘯きながら好戦的な態度で独自の観点を推進しようとする参加姿勢、に対してになるとの理解である。これらのどちらか区別することは肝心であると考えているが、前者であればなだめながらだましだまし説得するのも手であろうし、後者なら方針やガイドラインを提示してわからせようとするのが結果として相手の付け焼刃による方針曲解や理論武装[注 1]を助長するのも見てきたので、方針熟読を言えばいいというものではないと慎重にならざるを得ない。また、なだめるとかえって逆上、調子づく輩もいるのでそうなるくらいなら区別がついた時点で扱いは一律にし、大概は孤立している相手がいつまでも納得しないのに付き合わされて疲弊させられないための圧力であるから、よくノートでの議論で見かける「ここでそんなことを言っているのはあなただけです」などの自覚を促す言葉が、それを言うにふさわしい立場の利用者の口から出るのも有意と言えるのではなかろうか。
記事から抜粋した上での私論
コミュニティ意識改革の三大原理
- 上で引用した記事の定義から転じて
信念義認(信念のみ)はウィキペディアン信念の根幹であり、方針のみ、万人裁定者・調停者とともに、コミュニティ意識改革の三大原理の一つ。「方針のみ」は形式原理であり、「信念のみ」は内容原理である。
- としてみる。信仰に対する信念、聖書に対する方針、祭司に対する裁定者・調停者は、宗教であるかそうでないかの違いで基本的な意味は同じである。ちなみにmeta:Stewards/jaでは「スチュワードは裁定者や調停者でもありません。」と断っている。これは出来過ぎであろう。そもそも黎明期のウィキペディアがBomisからヌーペディアを経てコミュニティを形成した時点で表面上は大きな混乱もなくいきなりまとまっているのは、商用に傾いていたのをインターネットの原型で学術情報ネットワークの軸に起こした一つの原理主義が功を奏したのだと見ている。日本語版では広告・宣伝を邪悪とみなす嫌儲でありながら税金の無駄遣いを余儀なくされるジレンマから抜け出してきた実名の層がほぼ水面下に潜り、パソコン通信あがりの論客が匿名性を確保しながら共存できたのもウィキペディアのコミュニティ意識改革の三大原理が持つ包容力なのだろうか。
- Wikipedia:善意にとるというガイドラインにしても性善説ではなく、「善意による過ちだとわかる時には、」と切り出すように方針という善悪がわからない段階を前提にしている。行為義認に対する信仰義認、ウィキペディアの信念義認をよくあらわしていると言える。「方針のみ」についてはイエスは旧約聖書の規則主義を否定。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは規則主義ではありませんとここまでは同じ。ところがイエスが言ったことは規則ではなく意思でありなおかつ絶対なのだ。ということでウィキペディアの方針は実は規則ではなくコミュニティの意思と思えばいいだけの話とわかる。しかし絶対と言えるのか……[注 2]何かの議論で相手に対し自身の方針解釈をですます調で言い切る場合がある。これが支持されて時には信任として現れることがあるが、信任自体は方針解釈の自信とは別の貢献への期待感によるものだ。auto義認とでも言える絶対とみなされてサイレント・マジョリティとしては来るべき時が来るまである種の目で見守っているだけなのかもしれない。
- これまでにWikipedia:削除依頼の審議には400回以上参加してきたが、意思表示の根拠としては方針のWikipedia:検証可能性よりもガイドラインのWikipedia:独立記事作成の目安のほうが優勢であったり、後者が決して評判がいいとは言えない場面を度々見てきた。しかし「独立記事作成の目安」に疑問を抱きながら、他方ではしっかり草案である特筆性系文書を根拠にしている輩までいた。そのような方針外をコミュニティの意思としていいのかはともかく、「方針ではない」という疑念が表面化すると、これはもう「聖書のみ」のプロテスタントとそうではないカトリックとの対立に近い。ちなみに米国ではカトリックの大統領はジョー・バイデン以前は暗殺されたジョン・F・ケネディだけであった。しかしバイデンの政策の一部はカトリックから猛反発を招き始めている[9]。つまり「聖書のみ」のプロテスタントの自由に傾いてるからだ。このことはウィキペディアも「方針のみ」が自由を保障し、指導する立場の利用者、管理者もそう心得ないと反発を招くということになるのを意味しているのかもしれない。
思考・嗜好・志向・試行
そもそも「私たちは存在していないのではないか」
- 『スープ〜生まれ変わりの物語〜』という日本映画がある。原作は森田健 (著作家)による『生まれ変わりの村』で中国奥地のある村にある信仰のようなもの。これと同じ話は中国との国境に近いタイ北部でもちらほら聞くので以前より興味があった。それから、やがて誰にでも必ずおとずれる死を考えると、そもそも「私たちは存在していないのではないか」という疑いのもと、昨今の新型コロナウイルスワクチンを転生のための「スープ」とダブらせて複雑な思いに陥っている。ただし、これは科学的な客観性を放棄し同じところをぐるぐる回っている哲学[11]に逃避するほどでもなく、さらに叙述性を持たせた文学や宗教のような考え方とも異なり、漠然としていることにこだわり且つ確信を伴う妄想でもない。懐疑でもなければ単なる興味である。興味というのは自分の頭の中で面白ければ何でもよいのであって、例として共産主義と共産趣味の違いのようなものであると思っている。
「I think if this country gets any kinder or gentler, it's literally going to cease to exist. (この国がちょっとでも温厚になれば、文字通り存在しなくなると思う。)」
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—ドナルド・トランプ[12]
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方向性から漏れた気味の悪さ、一長一短との区別
- 上記引用はドナルド・トランプが1990年にPLAYBOY誌のインタビューで語ったとされる。最近よく言われるモラルハラスメントであるが、そういったトラブルの専門家である弁護士によれば、これが顕著な父親の特徴として、まず第一に「ときどきは、優しい[13]」が挙げられている。そこからトランプが言わんとしているのは、たとえば反社会的勢力による炊き出しよりも方向性から漏れた気味の悪さ、一長一短との区別であって、考えようによっては温厚を否定しているわけではない気がする。モラルハラスメントについては家庭・組織全体の問題にもなり得るが、核としては上がいつまで経っても下を未熟者扱いしようとする悪い面での儒教思想というのがある。しかしながらこれは「わかっているくせにわざとやっている」などという“悪意に取る”だけでなく「何度言ってもわからない」とする“善意に取る”のほうでのマウントもなきにしもあらずであるから、そこがお互いの理解の難しさなのだろう。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」
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—松浦清[14]
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単にフロックということだけならそう何度も続かない
- 野村克也の座右の銘でもあるこの言葉は、江戸時代の大名・松浦清(松浦静山)が剣術書『剣談』で述べたものである[14]。ポジティブな結果をもたらす原因がわからず、単にフロックということだけならそう何度も続かない。私たちが一人の人間として生を受ける過程もそうだが、偶然も重なって結果を生み出せばもはや必然との境界は曖昧になり、不思議という言い方が出てくるのだと思っている。また、これが戦となると味方がどれだけがつくか、足を引っ張る存在が紛れていないか、裏切りを企てる密偵が潜んでいないか、結果が出てから気づいても後の祭りだ。そのような懸念があっても不思議に勝つことがあり、わかりやすい例が元寇を退散させたとされる神風である。しかし当初はボランティアに過ぎなかった御家人たちは、自分たちが事実として私財を投じていることから現実を見つめていかなければならず、神国の信仰よりも鎌倉幕府に見返りを求めた。なぜなら将軍は現人神ではない。
脚注
注釈
- ^ そのような輩でもソーシャルな観点から正しい主張をしてくるタイプとなると、提示された文書の中から整合性のある文言を切り取って反論してくる傾向があるので、但し書きを伴う文書の扱いは慎重にならざるを得ない。
- ^ なんとなくではあるがマグダラのマリアとレイチェル・マースデンがかぶることもあり、ジミー・ウェールズも死後、救世主と崇められる気もするし、彼の遺志・原理主義を盾にコミュニティ・サイトは分裂するのかなと思っている。
出典