中島春雄
来歴実家は肉屋で、5人兄弟の三男だった。水泳・素潜りが得意で、のちのゴジラ役では大いにこれが役立った[15]。三男坊で家業は継げず、小学校卒業後に横須賀へ移る。 1943年(昭和18年)、14歳で横須賀の海軍航空技術廠の養成所に入る[16][17]。養成員(予科錬)となり、発着機部(カタパルト担当)配属となる。円谷英二や有川貞昌と同じく、飛行機乗り志望だった。 1945年(昭和20年)、16歳。終戦となり、実家へ戻る。家業を継いだ兄がまだ復員しておらず、肉屋を1年間手伝う。 1946年(昭和21年)、17歳。兄が復員したため、予科錬の同僚の紹介で三沢飛行場にて進駐軍の物資輸送トラックの運転手となる[18]が、スピード違反を犯して解雇される[16]。 1947年(昭和22年)、18歳。新聞広告を見て俳優養成所「映画俳優学校」に応募して入校し[16][19][注釈 1]、東宝や新東宝などの映画撮影所に出入りするようになる。同期生には広瀬正一、丹波哲郎、高倉みゆきらがいる[16]。 1949年(昭和24年)、20歳。黒澤明監督作品『野良犬』で映画に初出演するが、編集で出演シーンを全カットされてしまった[2][21][22]ため、幻のデビュー作となった[21]。 1950年(昭和25年)、21歳。俳優学校の講師を務めていた坂内永三郎からの誘いで[16]、東宝に入社[2][5][13][19][9][7][注釈 2]。役のつかない、いわゆる「大部屋俳優」となる[20]。当時の東宝は賃金不払いが常態化しており、運転手時代の貯金を切り崩しながらの不安定な立場だったという。こうした状況から組合に加入し、映画界の労働争議にも加わっている。 1953年(昭和28年)、24歳。『太平洋の鷲』での攻撃機航空兵役で、日本で初めて身体に火をつけてのファイヤースタントを演じる[23][12][1][16][13][20][9]。当時、日本にはスタントマンという職業はまだなく、「吹き替え」と呼ばれていた。この時期、数々の吹き替えをこなす。 1954年(昭和29年)、25歳。日本初の特撮怪獣映画『ゴジラ』で、主役の怪獣ゴジラのスーツアクターを務める[2][5][8][13][9]。当時、「スーツアクター」という呼称はまだなく、中島は「ぬいぐるみ役者」を自称していた[注釈 3]。以後、18年間にわたり、ゴジラシリーズでゴジラを演じたゴジラ俳優として有名になる[2][3][24][5][10][20][7]。また、ゴジラ以外の怪獣映画でも、主役の怪獣役を演じる[25][20][26]。 1956年(昭和31年)、27歳。『空の大怪獣 ラドン』でラドン役を演じ、日本初の本格的なワイヤーアクションを演じる[23]。 1965年(昭和40年)、36歳。『三大怪獣 地球最大の決戦』公開後、松屋デパートを皮切りに、撮影用の「本物」のゴジラを着てのキャンペーン巡業が始まり、大阪や名古屋など各都市でゴジラの実演を行う。同年、監督の円谷英二から直接、「春坊、テレビ番組をやるからちょっと助けてくれ」と声をかけられ、円谷プロダクション初のテレビ特撮作品『ウルトラQ』で怪獣「ゴメス」役を演じる[27]。以後、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』にも怪獣役などで出演したほか、怪獣ショーの立ち回り指導も行なっていた[27]。 1971年(昭和46年)、42歳。東宝から専属契約解除を言い渡された後、東宝撮影所脇の東宝経営のボウリング場[28][注釈 4]に勤務。 1972年(昭和47年)、43歳。特撮スタッフからたっての願いを受けて『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』でゴジラを演じる。この作品を最後に、ゴジラのぬいぐるみ役者を引退する[5][13][9]。ボウリング場の閉鎖後には、東宝経営の麻雀店の店長を務めた。麻雀店のほか、東宝共栄企業や東宝日曜大工センターで勤務していた時期もあった。 2011年(平成23年)、アメリカ合衆国ロサンゼルス市より市民栄誉賞を受賞する[29][7]。 2012年(平成24年)11月、出身地である酒田市より「第1回酒田ふるさと栄誉賞」を受賞する[30]。 2015年(平成27年)急病のため、救急車で搬送されて緊急入院。 2017年(平成29年)8月7日午後3時6分、肺炎のため、東京都内の病院で死去[11][31]。88歳没[32]。 2018年(平成30年)3月5日(現地時間で3月4日)、米ロサンゼルス・ハリウッドのドルビー・シアターで開かれた第90回アカデミー賞授賞式の追悼コーナーで、他の映画関係者の故人らとともに追悼された[33]。 2019年のアメリカ映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』では、エンドクレジットに「In memory of Yoshimitsu Banno(1931-2017) Haruo Nakajima (1929-2017)」との献辞が掲げられている。 ゴジラ俳優として
ゴジラ俳優としての知名度は世界的であり[9]、海外ではミスター・ゴジラとの愛称で親しまれている[23][20]。 ゴジラを演じることになった経緯は、先輩俳優の手塚勝巳と共にゴジラスーツを着て歩行テストしたところ、中島が10メートル歩けたこと[16][14][注釈 5]であると語っている[34][注釈 6]。また、『太平洋の鷲』でのファイヤースタントを円谷英二が記憶していたからだろうと語っている[1][19][35][36][注釈 7]。1954年の1作目のゴジラは、最初に完成したぬいぐるみが150キログラム近くもあり、一度転べば自力では立ち上がれないようなものだったが、「軍隊で鍛えられてますからね、別段どうってことは無かったですよ」「ゴジラやるのは、予科練の厳しさに比べたらなんでもない[19]」と語っている。また、着脱が面倒であったことから、待ち時間はぬいぐるみを着たまま中で寝ていたという[12][1]。 日本初の大怪獣ゴジラを演じるに当たって、どんな動きをすればリアルに見えるかと悩んだ。円谷からは『キング・コング』のフィルムを参考に見せられたが、まだはっきりイメージがつかめず、仕事の合間に上野動物園に日参して動物の動きを研究した[37][19][20][14]。「エテ公は参考にならなかったが、象や熊は非常に参考になった」という。中島的なゴジラの動きとは、「脇を開かず、つま先を蹴り上げて、足の裏を見せないよう歩くこと」だという。また、怪獣に入る際には、必ず頭に汗止めの豆絞りの鉢巻を巻くのが常だった[1]。 当初は造形技師の開米栄三や、前述の手塚らと代わる代わる入ったゴジラのぬいぐるみだが、敵怪獣との格闘場面のある『ゴジラの逆襲』からは、立ち回りを考えた中島の要求によって、完全に中島の体格に合わせたオーダーメイド仕様となった[37]。『ウルトラQ』に登場したゴメスや『ウルトラマン』に登場したジラースなど、ゴジラを改造した怪獣も中島が演じている[37]。 怪獣を作るスタッフたちのいる特美課には始終出入りして、互いに意見を交換し合っていた。カメラマンの富岡素敬によれば、中島はカメラの撮影速度を尋ね、その速さに合わせて演技を行っていたという[38]。昼間の撮影が終わったあとは、残業している利光貞三や造型スタッフを労いに、よく一升瓶の酒と馬肉3キロを買って来て焼肉を皆で食べていたという[1]。彼らと酒を酌み交わすのが体調維持の秘訣だったそうである。 新しいゴジラが作られる際には、必ず中島が試着して転げ回り、脇や股の部分を破いて、そこに「マチ(継ぎ布)」を縫いこませて動きやすいようにしていた。また、かかとに木製のヒール部分を入れさせたのも中島の工夫である。このヒール部分を入れることで、トンボが切れるようになったという。腰のひねりによって、ゴジラの尻尾を動かす技も編み出し、「怪獣の尻尾を中から動かせるのは僕だけですよ」とコメントしている。ゴジラの尻尾の付け根には、頭部ギミック用の自動車用のバッテリーが内蔵されており、慣れてくると、ぬいぐるみに入ったまま、このバッテリー部分に腰掛けて、待ち時間の間に居眠りできるほどだった[39]。 円谷からは「春坊」と呼ばれて[34][注釈 8]可愛がられた。怪獣同士の格闘は、相手役と打ち合わせ、中島が立ち回りを考えていたが、円谷は中島に全幅の信頼を置き、すべて黙って任せてくれて、まったく口出ししなかった[14]。『キングコング対ゴジラ』で、コングがゴジラを背負い投げする豪快なシーンがあるが、これもコング役の広瀬正一と打ち合わせてぶっつけ本番で行ったものである。円谷は怪獣に流血をさせないという方針であったことから、円谷の死後に制作された『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』でゴジラの流血描写を行うことには賛成できなかったと述べている[13]。 柔道は2段の腕前で[17]、上背はあまりないが、逆三角形の隆々たる体格だった。当時の東宝にはトレーニングルームがあり、広瀬らとはここでバーベルなどで常に体を鍛錬し、撮影に備えていたという[41]。ゴジラ以外で印象に残っている怪獣は、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』のガイラだと述べており、この怪獣では初めて中島の顔の型が取られ、怪獣の顔面が造られている[22]。 ゴジラを演じることについて、当初は厚いゴムに覆われ自分では出ることができないため不安感や孤独感が強かったが、次第にそれらは薄れ、自身が映画の主役であるということを意識し、演じることが気持ち良いと感じるように変わっていったと語っている[14]。 50歳までゴジラを演じるつもりでいたが[13][28]、円谷英二の死に「ゴジラもおしまいか」とショックを受ける[28]。特撮スタッフの中野昭慶らに説得され[42]、円谷の死後に製作された『ゴジラ対ヘドラ』と『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』の2作でゴジラを演じた。この後もゴジラ役として呼ばれることを期待して東宝の子会社で働いていたが、彼抜きで『ゴジラ対メガロ』が製作されたため、ゴジラ役は「自然消滅した」と語っている[22][14]。 のちに氾濫するテレビ怪獣たちには、「動きがギャング的というか、軽すぎて、あれじゃ怪獣の動きとはいえない。単に軽いだけだ」と苦言を呈していた。怪獣の「ぬいぐるみ」は重くなければいけないものであり、重い怪獣を軽そうに演じるのが本来の怪獣演技だとの主張である。ゴジラのぬいぐるみは、一本撮影する間に中島の激しい立ち回りでぼろぼろになり、新作ごとに作り直していた。「平成のゴジラが何度も使いまわされているのは、立ち回りが足りない証拠だ」と語っている。 エピソード前述の通り、東宝では大部屋の俳優(契約の正式な呼称はB2)として仕事をこなしていたため、素顔で出演する時は「捜索隊員」や「ガラス拭き」などといった、名前のない端役が多い。予科練時代に鍛えていたことから、どんな撮影でも辛くはなかったという[1]。 俳優の岡豊とは両夫婦で新婚旅行に行くほど仲が良かった[43]。岡によれば中島は山形訛りにコンプレックスがあったといい、岡の妻である記平佳枝はゴジラで中島が認められたことを岡も喜んでいたと述べている[43]。 ゴジラのぬいぐるみはメカニックが仕込んである頭が一番重く、海に飛び込むシーンの撮影では、飛び込んだ後の水中で逆立ちするような姿勢になってしまうそうで、カットの合図と同時にスタッフが救助に来るまで中島はじっと動かずにこの体勢で息を止め、助けを待っていた[44]。『キングコング対ゴジラ』のラストでキングコングと組み合ったまま海に落ちるシーンでは、落下の勢いで気絶してしまい、もう少しで溺死するところだった。また、『空の大怪獣ラドン』で西海橋をへし折るシーンでは、待機中にぬいぐるみの吊り下げに使う滑車が外れ、数メートル下のプールにぬいぐるみごと落下してしまった[12][45]。 『モスラ対ゴジラ』でゴジラが埋立地から徐々に姿を現すシーンの撮影では、スーツに入った中島を実際に土を被せており、中島の演技に感動したスタッフたちから拍手が起きたという[37][31]。普段は滅多に褒めない円谷英二からも称賛され、中島はゴジラ役者冥利に尽きると語っている[31]。 特技の素潜りが長じ、スキューバ・ダイビングの免許を取得していた[14]。余暇には同じく免許を持つ坂野義光らとともに、有川貞昌や富岡素敬ら撮影スタッフを引き入れ、スキューバを教えていた[16]。これを活かし、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』では水中撮影も行った[14]。 『ゴジラ対ヘドラ』などで共演した薩摩剣八郎(中山剣吾)は、中島から言葉でアドバイスされることはなかったが、信念などはわかったと述べている[46]。また、中島の妻が撮影現場に栄養補給食を差し入れに訪れており、薩摩も時折ご馳走になったという[46]。 中島の補助も務めた造形助手の開米栄三によれば、中島は酒豪であったため、中島が着用した後のスーツは酒の臭いが染みついており、毎日のようにアルコールで拭いても臭いが消えなかったと証言している[47]。中島は、ゴジラを着ると汗が大量に出るため、二日酔いの特効薬であったと語っている[47]。 主にアメリカのファンやイベントなどでの講演依頼は引きも切らず、貯まった講演料で家を建てた。[要出典] 『キングコングの逆襲』のあと、ハリウッドからキングコング役として、破格のギャラでオファーがあった。本場で演技ができると中島本人も大乗り気であったが、円谷に「何言ってるんだ、次回作が控えてんだぞ」と一蹴されて断念した[48]。 2014年5月16日に全米公開された『GODZILLA ゴジラ』(日本では同年7月25日に公開)では、横須賀基地での上映会に招待され、ファンと記念撮影などを行った[49]。 出演作品映画
テレビ
DVD
中島春雄を演じた俳優著書
脚注注釈
出典
参考文献
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