堀内實三
経歴1932年、山梨県甲府市に生まれる。祖母が小林一三の実姉という係累もあり[要出典]、1956年に立教大学経済学部を卒業後、東宝に入社[1][2]。経理部に配属され[2]、関係会社の収支計算に関与する。 1961年、配給部に移り[2]、配給調査、配給業務、配給促進など、市場動向の掌握、配給実務、動員計画など戦略面を学んだ。『東京オリンピック』の動員計画の立案推進、『砂の女』『怪談』などのフリーブッキングにも参画した。 1973年、松岡功常務担当の元で営業本部制が敷かれると、配給部次長になる。配給=興行=宣伝の三位一体化を心がける。映画『八甲田山』(1977年)では、舞台となる八甲田山のある青森県庁へ通い詰め、青森県知事の承認を得て同作品を県民映画とし、地方は遅れ興行が常識であった時代に青森県内の上映全館で一斉封切りを実現した[1]。 1978年に配給部長就任[1][2]。1982年からは映画調整部長も兼ねる[3][2]。1983年、配給部と関東支社が統合した映画営業部の初代部長に就任。映画営業部長兼映画調整部長となる[3]。1984年6月には取締役映画調整部長兼宣伝部長となり、東宝配給の全作品の番組編成および宣伝にコミットした(但し映像事業部扱いのアニメおよび実写作品を除く)。 1984年にゴジラ復活に伴い「ゴジラ復活準備委員会」(のち「ゴジラ委員会」)を立ち上げ、その委員長に就任[1][2]。『ゴジラvsビオランテ』以降もそのポストにあったが、すべてノンクレジット。 1989年に常務取締役。1994年に専務取締役[2][注釈 1]。1997年に子会社東宝不動産の取締役を経て、1998年に同社の代表取締役社長に就任し[2]、翌1999年に東宝取締役を退任した[2][注釈 2]。2005年5月27日に東宝不動産相談役に退く。2017年3月1日に東宝不動産が権利義務一切を承継し解散したこ事により引退。 代表作
脚注注釈出典参考文献
外部リンク
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