富岡素敬
来歴1947年(昭和22年)、青山学院大学経済学部を卒業し真持映画に入社。16ミリフィルムの技術現像を研究。 1948年(昭和23年)、東横映画に入社[7][注釈 1]。撮影助手を務める[1]。 1950年(昭和25年)、円谷特殊技術研究所に所属[6][5]。 1954年(昭和29年)、東宝撮影所の撮影助手として入社[1]。映画『ゴジラ』の撮影に参加する[1]。 1961年(昭和36年)、『モスラ』で特殊撮影係に就任[2][3]。 1966年(昭和41年)、特撮映画のメインカメラマンとなる。 1976年(昭和51年)、東宝映像美術を退社[6]。東京現像所に移る[6]。以後、オプチカル技師として活動[2][3]。 人物有川貞昌によれば、元々は東映でデスクワークを務めていたが現場を希望し、東映のプロデューサーを通じて円谷英二へ紹介された[8]。富岡自身は、東横映画時代に太秦撮影所で合成作業に訪れていた円谷と出会い、親しくしていたと述懐している[7]。特殊技術研究所時代は、有川、国分正一らと3人で「円谷プロ」を自称していた[7]。東宝に入る際は、「円谷の弟子」という触れ込みであったという[7]。 円谷の特技監督時代では、有川に次ぐ特撮カメラマンを務め、B班カメラマンなどを担当した[3][1][5]。有川が特撮監督に就任した後は、チーフカメラマンを務めた[3][1]。 Bカメラは主にアップを担当していた[7][5]。ロングショット(マスターショット)を担当し全体の指揮も行っていた有川に対し、冨岡はゴジラの目や尾などの動きを撮るなど円谷から無理難題を要求されていたという[7][5]。冨岡は、円谷からは怒られることが多かったと述懐している[7]。書籍『初代ゴジラ研究読本』では、高度なカメラワークを要求されていたと評している[5]。 初のカラー特撮である『白夫人の妖恋』、初のワイドスクリーン作品『地球防衛軍』、モスラやラドンなどの操演怪獣、『海底軍艦』での疑似海底、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』での水中撮影、戦争映画の大プールでの艦隊撮影など、東宝特撮全盛期に様々な撮影を経験し、試行錯誤しながら苦労も多かったという[7]。 『キングコング対ゴジラ』では、クライマックスでのゴジラとキングコングが熱海城で戦うシーンの撮影にて手動でパララックスを調整しなければならないところ修正に失敗し、円谷から徹底的に怒られた上に、スタッフが2週間かけた熱海城のミニチュアをまた作らなければならないかもしれないと考え、その晩は一睡もできなかったが、翌日のラッシュで無事に映っていたことがわかり、円谷から声をかけられた後、人知れず泣いたという[6]。 『モスラ対ゴジラ』では、富岡の兄が昭和石油の労務課長を務めていたことから同社の撮影協力を得ている[9]。 主な作品映画博覧会
DVD出演受賞歴脚注注釈出典
参考文献
外部リンク |