福島正実
[1] - 1976年4月9日[1])[2]は、樺太出身[3][2]の編集者[1]、SF作家[1]、SF評論家、翻訳家。 (ふくしま まさみ、1929年2月18日本名: (かとう まさみ)。別名: (かとう きょう)、 (はら けんすけ)がある。長男の米陸軍大尉で米国防総省外国語学校日本語学部長であり、第3回開高健賞奨励賞受賞者である[4]。次男の加藤まさし[5][2][6](別名・桑沢慧[7]、1963年 - )も翻訳・著述を手がけている。義弟(妹の夫)は内田庶(宮田昇)。詩人田村隆一の2度目の妻は正実の従姉妹[8]。 (かとう たかし、1957年 -)は元初代『S-Fマガジン』編集長であり、それまで日本の出版界では商業的に成功しなかったSFを日本に定着させるため、様々な分野で精力的に活動し[2]、「SFの鬼」と呼ばれた。同誌1969年2月に掲載された「覆面座談会」において匿名で気鋭の作家らを誹謗中傷し、晩年は業界の分断と停滞を招いた(覆面座談会事件)。 来歴樺太庁の吏員を父として、樺太豊原市(現在のロシア・サハリン州ユジノサハリンスク)に生まれる。父の転勤に伴い、1934年(昭和9年)から満洲に住む。1937年(昭和12年)に帰国し、横浜市中区で育つ。 横浜市港北区の日本大学第四中学校(現在の日本大学中学校・高等学校)に学び、1945年(昭和20年)、旧制の日本大学予科文科に入学。原狷介名義で文芸同人誌活動をし、宮田昇と知り合う。1950年(昭和25年)、明治大学文学部仏文科に編入学。1954年に同大学を中退[3][2]。清水俊二に翻訳を[2]、那須辰造に児童文学の創作を師事した。 1953年ごろ、早川書房に入社するが[注釈 1]。1954年、父の違法行為での借金の肩代わりをするために退社して印刷ブローカーに。1955年、宮田昇の紹介で石泉社の『少年少女科学小説選集』の選者・翻訳者を担当。以降、SFに熱中。 1956年(昭和31年)、社長・早川清の招きで早川書房に、再度入社した。翌1957年(昭和32年)、都筑道夫とともに、叢書「ハヤカワ・ファンタジー」(のちに「ハヤカワSFシリーズ」)を立ち上げた。また、1958年に都筑とともに、以前から提案をしていた講談社での「S・Fシリーズ」の企画にあたったが、シリーズは6冊で終了となった[10]。 『S-Fマガジン』を創刊1959年(昭和34年)12月25日、『S-Fマガジン』創刊号(1960年2月号)を刊行。初代編集長を務める[3][2][注釈 2]。 1960年(昭和35年)に誌上で空想科学小説コンテストを開催、1963年(昭和38年)に日本SF作家クラブを創設するなど、草創期の日本SF界での日本のSF作家の育成に尽力した[2][注釈 3]。科学と文学とが融合したハイブロウな文学としてのSFを目指し、スペース・オペラなどの作品は排除した(ただし、後に、読者に人気があることから、渋々、その存在を認めた)。また、『S-Fマガジン』、「ハヤカワSFシリーズ」いずれも、カバー絵は中島靖侃の抽象画であり、「幼稚な文学」と見做されないよう配慮した。また、既成文壇からSFへの批判や、無理解な評論などがあると、全身全霊をもって反論活動を行った。 1966年(昭和41年)ごろ、SF作家仲間や白木茂、亀山龍樹、北川幸比古、中尾明などと、「少年文芸作家クラブ」を創設した。 1968年(昭和43年)10月、自ら企画した『世界SF全集』の刊行が開始。 同年12月25日発売の『S-Fマガジン』1969年2月号に掲載された「覆面座談会 日本のSF '68〜'69」の内容が騒ぎとなり、1969年5月末をもって早川書房編集部長および『S-Fマガジン』編集長を辞任した[11][8]。8月号が最後の担当となった。 →詳細は「覆面座談会事件」を参照
1970年の日本万国博覧会での三菱未来館、1975年の沖縄国際海洋博覧会での三菱海洋未来館の企画も手掛けた[6]。 1976年(昭和51年)4月9日、死去。47歳没。没後、福島を記念して「少年文芸作家クラブ」(現・「創作集団プロミネンス」)および岩崎書店の共催で福島正実記念SF童話賞が創設された。 人物
著書単著
共著・編著
翻訳
アンドリュー・ガーヴ
ロバート・A・ハインライン
ジャック・フィニイ
アーサー・C・クラーク
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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