日本SF作家クラブ
一般社団法人日本SF作家クラブ(にほんSFさっかクラブ、SFWJ : Science Fiction and Fantasy Writers of Japan)は、1963年発足の日本のSF作家・翻訳者や評論家、編集者による親睦団体であった。2017年8月24日に一般社団法人化した。 1963年の設立時の英名は、Japan SF Writers Association (略称JSFWA)で[1]SF作家や科学ライターのための親睦会だったが、1999年の総会でアメリカSFファンタジー作家協会(略称SFWA)に倣って、英語表記に「Fantasy」を入れることを決定[2]。以後、SF作家のみならず、ファンタジーや推理小説を主な活躍の舞台とする小説家も入会するようになった。 その初期から手塚治虫など漫画家にも門戸を開いており、いしかわじゅんや大友克洋や京極夏彦や神坂一らもかつてメンバーに名を連ねた(なお、2023年2月現在は、手塚以外の前記4名の全員が会員名簿に名前がない)。 1980年から「日本SF大賞」を主催している。かつて主催していた「日本SF新人賞」「日本SF評論賞」の2賞は休止。2021年から「日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」「日本SF作家クラブの小さなマンガコンテスト」、略して「さなコン」を主催。 小松左京、星新一、筒井康隆ら日本SF界の重鎮が所属している(いた)。 設立の経緯1963年3月5日、新宿の台湾料理屋山珍居において、石川喬司・小松左京・川村哲郎(筆名、中上守)・斎藤守弘・斎藤伯好・半村良・福島正実・星新一・森優・光瀬龍・矢野徹の11人のSF関係者によって発足した。「日本SF作家クラブ」という名称は、江戸川乱歩が創設した推理作家による「日本探偵作家クラブ」(現・日本推理作家協会)がヒントになったものとみられる[3]。なお、のちに「SF作家第一世代」の主要メンバーとしてみなされることになる眉村卓、筒井康隆は、関西在住ということもあってか、クラブの創設メンバーには含まれていない。この時の会合の様子は福島正実によってオープンリールに録音されている[4]。 当時『SFマガジン』編集長だった福島正実の音頭取りによる設立で、福島が意図していたのは、純文学への対抗意識とプロによるSF界のリードだったと言われる[5][6][7]。 発足当時の連絡事務所は『SFマガジン』を発行する早川書房に置き[8]、実質的な会長は福島正実だったが、公的な代表として設置されていたのは事務局長で、初代事務局長は半村良、次いで大伴昌司、高斎正が歴任した[3]。一説には、会員であるSF作家を国家に見立て、事務局長は国際連合事務総長を擬制したものであったという[9]。福島死去後の1976年から会長の地位が設立され、初代会長には星新一が就任した[3]。 「女性はOK」「小説家以外もOK」と門戸が広く、後に、漫画家や映像関係などヴィジュアル関連の人物が入会するのを見越した先見性があった。 活動内容新幹線がなかった頃、関西方面に住んでいる会員を考慮して彼らの生活に支障がないように会合が開かれ、初期には毎月のように旅行した。1964年に宿泊先の雄琴温泉の旅館が作家とサッカーを聞き間違え、「歓迎 SFサッカークラブ様」と歓迎の札が掲げてあった笑い話は有名である[10][11](豊田有恒著『日本SF誕生』に当時の写真が掲載されている[12])。 見学旅行には東海村の原子力研究所へ行ったり、三鷹の国立天文台や、砧のNHK放送技術研究所を見学したり等[13]、さまざまなところへよく出かけたため、初期の頃は「メダカの群れ」「金魚のフン」などと言われた[4]。1970年には日本SFファングループ連合会議と共同で、米英ソなどからフレデリック・ポール、ブライアン・オールディス、アーサー・C・クラーク、ジュディス・メリルら作家を招き、東京・名古屋・京都で「国際SFシンポジウム」を主催した[3]。 1973年の大伴昌司の死後、SF作家クラブでは、毎年、鎌倉霊園へ大伴の墓参りに行き、そのあと熱海へ一泊旅行するのが恒例だった[14]。 1980年から日本SF大賞、1999年から日本SF新人賞(2009年をもって終了)、2006年から日本SF評論賞(2014年をもって終了)を主催。 その他の活動には、1970年には、会員の手塚治虫がアニメ映画『クレオパトラ』を製作した際に群集のシーンの声で参加[15]。2000年にクラブが編者となった初単行本のアンソロジー『2001』を、2001年に早川書房から『SF入門』という共著書を出すなどの活動をしている[3]。 2012年から、日本SF作家クラブ会員有志により運営されたネット・マガジン「SF Prologue Wave」が開始された。日本SF作家クラブ公認の同サイトについては、のちの2022.12.19更新の記事において、「これまで寄稿者は日本SF作家クラブ会員が原則でしたが、思い切って、その制約も取り払います」と記述されている[16]。 2013年の「創立50周年」で「第2回国際SFシンポジウム」等の記念プロジェクトを実施。また、同年、筒井康隆らベテラン会員10数名が「名誉会員」に[17]。 歴代会長・事務局長
入会資格設立当初は親睦団体という性格が強く、新規入会は全会一致で承認された場合のみという会則が設けられていた[注 1]。そのため、後に会員となった荒俣宏は当初入りたくても入れなかったという[18]。現会員の高野史緒についても、2回の入会拒否があったという[19]。 山田正紀会長時代の2005年に会則が改定され、3名以上の会員の推薦が有る場合に推薦文が事務局通信に掲載され、そこで異議申立てがなければ総会に諮られ、総会参加者の2/3以上の賛成で入会が認められる、という形になった[9]。また日本SF大賞受賞者には推薦不要で、いきなり総会で入会の可否が諮られる権利が与えられる[9]。ただ入会資格については、長年の運営の間に「プロとして一冊以上の単独著書がある」などの不文律が作られており、その経緯についても過去の議事録等が十分に整備されていないことから不透明な部分があったという[9]。 2017年の一般社団法人化に伴い定款が整備され、定款第6条において「原則として会員3名の推薦を受け(ただし日本SF大賞等の受賞者については会長による推薦でこれに代える)、会員からの意見を公募した上で、理事会において入会の可否を決定する」旨が定められた[20]。 エピソード酔っ払うと珍妙な言動をする星新一により、入会資格に「死んだ人はダメ」「宇宙人はダメ」「馬はダメ」[注 2]「星新一(178cm)より背の高い人はダメ」[注 3]「筒井康隆よりハンサムな人(定義不明)はダメ」「小松左京(自称85kg)より重い人はダメ」などの珍妙な条文が盛り込まれた[21]。この身長の不文律は田中光二(190cm)が入会した際、星は例のジョークで足を詰めたら入会を認めてやるとのたまわったが、無事入会を認められ不文律は形骸化した。この不文律が形骸化したためのちの鏡明など「大型作家」の入会に道を開くことになる[22]。 まだ、商業用原子炉が1基も稼働していない時代に、研究炉JRR3という原子炉を見学している。その時なんと原子炉格納容器の中まで入れてもらえた。筒井康隆は鉛煉瓦を持ち上げた[22]。 小松左京にとってSF作家クラブは、SFを語り合ったり、バカ話のできる仲間に会える場であり楽しくて仕方がなかった。特に星の存在は大きく、世の中にこんなおかしな人がいるのかと思った。当時、64年に東海道新幹線が開通するまで、大阪から東京に出てくるのは夜行で13時間かかったが、それでも集まりに参加したのは、星に会いたかったからだった[23]。 2019年ごろ以降、落語家、科学技術研究者、音楽家、デザイナー、ゲーム作家、架空戦記作家、漫画家、Web上でのSF小説愛好家など、従来の「SF作家」の枠に収まらない会員の入会が増えている傾向にある。 主な入会拒否者・退会者
「日本SF作家クラブ」名義の書籍
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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