坂内永三郎
坂内 永三郎(さかうち えいざぶろう、1907年1月11日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。本名は坂内 永二郎(さかうち えいじろう)。旧芸名は阪内 栄三郎、坂内 英二郎[2]。 人物・来歴1907年(明治40年)1月11日、福島県に生まれる[1]。 京都の新興キネマに所属し、1934年(昭和9年)10月11日に公開された寿々喜多呂九平監督の『七宝の桂』が、もっとも早い時期の出演記録である[2][3][4]。1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)にマキノ正博が新しく撮影所を建設・設立したマキノトーキー製作所に、翌1936年(昭和11年)に第二期入社で参加する[2][5]。同社は1937年(昭和12年)4月に解散し、マキノ正博らは日活京都撮影所に移籍したが、坂内は東宝映画京都撮影所に移籍している[2]。 第二次世界大戦終結後は、東宝、あるいは新東宝に所属した[2][3][4]。俳優座に所属した記録も残っている[6]。 映画監督の中川信夫とは、坂内の妻・愛ともども、マキノトーキー以来の交流があり、1973年(昭和48年)6月には、手紙魔の中川が、坂内の妻が寂しそうだったので、という理由で、1年間毎日手紙を書く約束をし、中川はこれを実行した[7]。1976年(昭和51年)発行の『映画年鑑 1977』には、川崎市多摩区登戸に在住している旨の記述があるが、それ以降の版には見当たらない[8]。没年不詳。 フィルモグラフィすべてクレジットは「出演」である[2][3][4]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 新興キネマ
マキノトーキー製作所初期の特筆以外すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[2]。
東宝映画京都撮影所特筆以外すべて製作は「東宝映画京都撮影所」、配給は「東宝映画」である[2]
戦後
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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