姓丸浩
姓丸 浩(せいまる ひろし、1904年 - 1940年代)は、日本の映画監督である[1][2][3][4][5]。 人物・来歴1904年(明治37年)、京都府京都市上京区西陣五番町に生まれる[1]。 1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、姓丸はこれに参加、翌1936年(昭和11年)1月、同社がその陣容を発表した際に、「助監督部」として、のちに同社で監督に昇進する平尾善夫、宮城文夫らとともに名を連ねた[6]。同社では、2歳下の松田定次(1906年 - 2003年)に師事する[1]。同年10月23日に公開された、大内弘・月澄江主演による『流れ雲三度笠』(共同監督マキノ正博)で、早くも監督に昇進する[3][4]。同社は1937年(昭和12年)4月に解散、姓丸は、師匠の松田定次、広瀬五郎、宮城文夫らとともに永田雅一所長率いる新興キネマ京都撮影所に移籍したが[6]、翌1938年(昭和13年)には、奈良のあやめ池の市川右太衛門プロダクションの撮影所を使用する全勝キネマに移籍、同社で26作もの映画を監督する[1][3][4]。 1941年(昭和16年)には、同社は松竹傘下に吸収されて興亜映画となり、あやめ池撮影所は閉鎖、姓丸は、興亜に移籍した[1][3][4]。興亜の使用する撮影所は、かつてのマキノトーキー撮影所(現在の松竹京都撮影所)であった。 1940年代のいずれかの時点で、肺に病を得て死去した[1]。満40歳前後の没。 フィルモグラフィ特筆以外すべてクレジットは「監督」である[3][4]。公開日の右側には特筆する職能のクレジット[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 マキノトーキー製作所すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[3][4]。すべて「トーキー」である[3][4]。
全勝キネマすべて製作・配給は「全勝キネマ」である[3][4]。すべてサイレント映画に活動写真弁士の解説を録音した「解説版」である[3][4]。
興亜映画すべて製作は「興亜映画」、配給は「松竹キネマ」である[3][4]。すべて「トーキー」である[3][4]。 脚注参考文献
関連項目外部リンク
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