田村邦男
田村 邦男(たむら くにお、1907年7月15日 - 1941年2月12日[1])は、日本の俳優である[2][3][4][5]。本名田村 邦夫(たむら くにお)[2][3]。日本大学相撲部出身、157cmの短躯ながら90kgの巨漢俳優として知られる[2][3]。 人物・来歴1907年(明治40年)7月15日、愛知県名古屋市長久寺町(現在の同市東区白壁)に生まれる[2][3]。 1920年(大正9年)、旧制・名古屋中学校(現在の名古屋高等学校)に入学、バスケットボールおよび柔道において、学生選手として活躍した[2]。1925年(大正14年)、同校を卒業して、東京に移り、日本大学専門部商科(旧制大学専門部)に進学、相撲部に所属して大毎大会(現在の全国学生相撲選手権大会)等で活躍し、その一方で日本大学劇研究会にも所属して演劇にも関わった[2][3]。 1928年(昭和3年)3月、同学を卒業し、京都に移り、日活大将軍撮影所現代劇部に入社、同年5月25日に公開された伊奈精一監督の『地下鉄三吉』に出演し、「田村 邦男」の芸名で映画界にデビューする[2][3][4]。同部には早稲田大学相撲部出身の俳優・浅岡信夫や、柔道四段を誇る俳優・広瀬恒美がおり、浅岡が監督し広瀬が主演した『大学選手』や『奮戦王』、広瀬が監督し浅岡が主演した『北極星』に田村も出演して、「日活スポーツ俳優」の一角を担った[2][4]。同撮影所が日活太秦撮影所(のちの日活京都撮影所および大映京都撮影所)に移転し、1929年(昭和4年)1月20日に公開された内田吐夢監督の『娑婆の風』以降、体格を生かした愛嬌のある役柄を得るようになる[2][4]。 「奇行の人」として知られ、とくに借金の名人で、当時の日活京都撮影所長の池永浩久に対して、巧みな弁舌で前借りを繰り返したという[2]。憎めない性格と誇張のない演技から、内田吐夢、村田実、溝口健二、池田富保、マキノ正博、稲垣浩といった一線級の監督陣に重宝され、愛された[2]。『時代の驕児』等では、山上伊太郎の書いた脚本のイメージ通りの芝居を完璧にこなしたと賞讃されている[2]。『弥次喜多 江戸の巻』『弥次喜多 箱根の巻 富士の巻』では、高勢実乗との弥次喜多コンビで魅了した[2]。 1934年(昭和9年)には日活を退社、市川右太衛門プロダクション第二部に移籍して、剣戟映画に出演、同年末には新興キネマの同京都撮影所(のちの東映京都撮影所)に移籍している[4]。マキノトーキー製作所が設立されたのは1935年(昭和10年)末であるが、田村は翌1936年(昭和11年)7月ころには移籍しており、同年7月8日には、新興キネマ製作、木村恵吾監督の『燗漫城』と、マキノトーキー製作、根岸東一郎・マキノ正博共同監督の『芝浜の革財布』が同日公開されることになる[4]。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔、大内弘ら大半の俳優が新興キネマ京都撮影所に移籍したのと同様、同撮影所に戻った[4][6]。しかしながら、マキノ正博、澤村國太郎、光岡龍三郎、田村と同期の水原洋一、團徳麿、志村喬、大倉千代子、大久保清子らは日活京都撮影所に移籍しており、田村も、1938年(昭和13年)が明けると、日活に移籍した[4][6]。 1939年(昭和14年)9月14日に公開された倉谷勇監督の『戦鼓』を最後に、出演記録が途絶える[2][4][5]。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となるが、継続入社したというような記録もなく、満32歳以降の消息は不明とされていたが[2][4]、『都新聞』1941年(昭和16年)2月15日付にて、去る2月12日に中華民国(当時は北支と呼称)山西省の陽成劇場でアトラクション出演中、突然病死したと報じられている[1]。満33歳没。 フィルモグラフィすべてクレジットは「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 日活大将軍撮影所すべて製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」である[4]。
日活太秦撮影所特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[4]。
市川右太衛門プロダクション第二部すべて製作は「市川右太衛門プロダクション第二部」、配給は「松竹キネマ」である[4]。
新興キネマ京都撮影所特筆以外すべて製作は「新興キネマ京都撮影所」、配給は「新興キネマ」である[4]。
マキノトーキー製作所初期の特筆以外すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[4]。
新興キネマ京都撮影所すべて製作は「新興キネマ京都撮影所」、配給は「新興キネマ」である[4]。
日活京都撮影所すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」である[4]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia