金田繁
金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 1966年3月15日[1])は、日本の映画監督、脚本家[2][3][4][5][6][7]。 人物・来歴1906年(明治39年)、京都府京都市下京区に生まれる[2][3]。妹・みねは、のちに東亜キネマの助監督時代に金田が師事した広瀬五郎の妻となった[2]。 旧制・京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、東亜キネマ等持院撮影所助監督部に入社した[2]。仁科熊彦、広瀬五郎の作品におもに助監督として就いた[2]。同社は1931年(昭和6年)に製作部門が崩壊し、同社が新設した東活映画社に移り、同年12月5日に公開されたサイレント映画『閃影双刃録』で、満25歳で監督に昇進した[2][4][5]。同社は翌1932年(昭和7年)10月に解散しており、同社が製作し、金田が大伴麟三と共同で監督したサイレント映画『決戦荒神山』は、同年12月31日、新設の宝塚キネマ興行が配給して公開された[4][5]。 1935年(昭和10年)、東京に移り、新興キネマ東京撮影所(現:東映東京撮影所)が製作した『鼻唄奇兵隊』を監督、同年2月28日に公開された記録がある[4][5]。しかし、同年すぐに、大阪府下の極東映画に移籍し、同年6月28日に公開された『武家姿日本晴れ』を監督している[4][5]。翌1936年(昭和11年)には、奈良県生駒郡伏見村(現:同県奈良市あやめ池北1丁目)にあった全勝キネマに移籍、多くのサイレントの剣戟映画を監督した[4][5]。1941年(昭和16年)には、同社は合併して、松竹資本の興亜映画が設立されると、そこに継続的に移籍し、同年10月20日に公開された『荒野の叫び』を姓丸浩と共同で監督している[4][5]。第二次世界大戦に突入して以降の作品歴は不明である[4][5]。 戦後、1964年(昭和39年)に放映を開始した連続テレビ映画『風雲真田城』を監督した記録が残っているが[6]、1966年(昭和41年)3月15日に死去[1]。満59歳没。 フィルモグラフィすべてクレジットは「監督」であり、監督以外のクレジットは特筆の通りである[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター (NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7][8]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。 東活映画
新興キネマ東京撮影所
極東映画
全勝キネマ
興亜映画戦後脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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