大久保清子
大久保 清子(おおくぼ きよこ、1911年1月30日 - 2006年8月4日[1])は、日本の女優である[2][3][4]。出生名笹井 朝子(ささい あさこ)、結婚後の本名は伊藤 朝子(いとう あさこ)[2][3]。女優引退後は、伊藤大輔夫人として知られる[3]。 人物・来歴1911年(明治44年)1月30日、京都府京都市上京区三条通千本(現在の同府同市中京区三条通千本)に生まれる[2][3]。父は笹井幸二郎、伯父は千本組当主の笹井三左衛門、従兄に笹井末三郎がいる[3]。旧制小学校(現在の京都市立朱雀第一小学校)、同市東山区の華頂高等女学校(現在の華頂女子高等学校)を卒業した[3]。『芸能人物事典 明治大正昭和』等には「精華高等女学校」を卒業した旨の記述があるが[2]、同校は現在の精華高等学校であり、当時は大阪市住吉区(現在の阿倍野区)晴明通に実在した学校であるが、誤りである[3]。 満22歳になった1933年(昭和8年)、従兄の末三郎に勧められて日活京都撮影所に入社、翌1934年(昭和9年)5月10日に公開された、辻吉朗監督の『修羅道春秋』に出演して、「大久保 清子」の名で映画界にデビューした[2][3][4]。同年8月末、永田雅一が独立して第一映画社を設立すると、これに参加した[2][3][4]。 1935年(昭和10年)12月末、マキノ正博が撮影所長、従兄の末三郎が理事となって設立したマキノトーキー製作所に、第二期入社として移籍した[3][4][5]。同社には、実弟の笹井武彦が経理部に所属していた[3][5]。1937年(昭和12年)4月末、同社が解散し、マキノ正博、澤村國太郎、光岡龍三郎、同期の水原洋一、田村邦男、團徳麿、志村喬、大倉千代子らとともに、日活京都撮影所に移籍した[5]。満26歳になる同年6月、映画監督の伊藤大輔(当時満38歳、伊藤は再婚)と結婚した[3]。 1981年(昭和56年)7月19日、夫の伊藤大輔が死去する[6]。1985年(昭和60年)、『伊藤大輔シナリオ集』全4巻を上梓、監修する[3]。1989年(平成元年)、伊藤大輔の旧蔵資料約4万点を京都府京都文化博物館に寄贈した[3]。 フィルモグラフィすべてクレジットは「出演」である[4]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 日活京都撮影所すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」である[4][8]。
第一映画特筆以外すべて製作は「第一映画社」、配給は「松竹キネマ」である[4]。
マキノトーキー製作所初期の特筆以外すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[4]。
ビブリオグラフィ国立国会図書館蔵書を中心とした書誌である。クレジットはすべて「伊藤朝子」名義。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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