エディ・ジョブソン
エディ・ジョブソン(Edwin "Eddie" Jobson、1955年4月28日 - )は、イングランド出身のキーボード奏者、ヴァイオリン奏者。 略歴バンド活動期1972年、カーヴド・エアにダリル・ウェイの後任として加入し[1]、プロ・ミュージシャンとしてのキャリアを開始する。 1973年、ロキシー・ミュージックにブライアン・イーノの後任として加入し[2]、1976年6月に解散が発表される[3]まで在籍した。 1976年10月から1977年3月までフランク・ザッパのコンサート・ツアーに参加[注釈 1][4][5]。 1977年、スーパーグループ・U.K.を結成。1979年の日本公演で初来日。 1980年、U.K.解散後、ジェスロ・タルで客演。 ソロ活動期1983年にエディ・ジョブソン&ズィンク名義のソロ・アルバム『ザ・グリーン・アルバム』、1985年に『テーマ・オブ・シークレッツ』を発表する。同年、Private Music レーベルよりリリースされたコンピレーション・アルバム『ピアノ・ワン(Piano One)』[6]には、彼が10代のときに作曲した「Dark Room」「Ballooning Over Texas」「Disturbance In Vienna」[注釈 2]の計3曲が収録された。 1992年、KORGのシンセサイザーを使ったミュージシャンのコンピレーション・アルバムで「Sketcth For Orchestra#4」を発表した。 U.K.の再始動その後はテレビ番組やCMの音楽制作を生業としていたが、1995年ごろU.K.の再始動を計画する。しかし多忙な本業を抱えながらの制作は難航し、やがて再びジョン・ウェットンと仲違いをして計画は頓挫してしまう。このマテリアルは後にジョブソンのソロ・プロジェクトに活かされて、元々アルバムでフィーチャーされる予定だったブルガリアン・ヴォイス アンジェリーテを前面に押し出した形で取り上げられた。 2007年末、元キング・クリムゾンのトレイ・ガンらとUKZを結成し、久々にバンドでの活動を開始。2009年1月24日には、ニューヨークでUKZとしての初のライブを行った。同年6月には、彼にとって30年ぶりとなる日本公演が、東京、名古屋、大阪で行われた。 2010年6月、U-Zプロジェクト(U-Z Project)を率いて再来日。15、16、17日に、大阪、東京で公演。 2013年11月に日本で行われたデビュー40周年記念公演では、初日の8日にウェットンをゲストに迎えてU.K.のアルバム2作を完全再現。9日と10日の公演では、彼のキャリアを俯瞰した選曲で、ウェットンに加えてカーヴド・エアのソーニャ・クリスティーナも客演した[7]。9日の公演の模様は、後にライブ・アルバムおよび映像作品『デビュー40周年記念特別公演 フォー・ディケイズ』としてリリースされている。 ライブ活動引退2017年、ライブ活動からの引退を表明。交通事故の怪我や、家族・友人・同僚を相次いで亡くし意欲が低下。ビジネス的な要因もあって決定を下したと語っている[8]。 2019年、ロキシー・ミュージックがロックの殿堂入りを果たした。ジョブソンは8人の受賞者[注釈 3]の一人に選ばれ、授賞式に出席した。ヴァイオリニストの受賞者は、彼が最初である。 備考・補足人間的にも創作者としても我の強いタイプと言われており、U.K.やリハーサルのみ参加したイエスでも、音楽性などを巡って他のメンバーと対立したと伝えられている。 1984年、再結成してアルバム『ロンリー・ハート』の録音をほぼ完了していたイエスから、キーボーディストのトニー・ケイがプロデューサーのトレヴァー・ホーンとの関係がうまくいっていなかったことを理由に脱退した。イエスは当時ジョブソンを初めとして様々なキーボーディストを試しており、彼は大ヒットした「ロンリー・ハート」のビデオ・クリップの撮影に参加した。ところがマネージメントが「これはあのイエスの再結成なのだ」というイメージで売る方針を貫いてケイを呼び戻すことに決めた。そこで彼は「イエスにキーボーディストは2人いらない」と言って離脱した[9][注釈 4]。 ディスコグラフィソロ
バンドカーヴド・エア
ロキシー・ミュージック
フランク・ザッパ
U.K.
ジェスロ・タル
UKZ
TV・映画
その他
日本公演脚注注釈
出典
引用文献
関連項目外部リンク |
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