フィル・マンザネラ
フィル・マンザネラ(Phil Manzanera、1951年1月31日 - )は、イングランドのロック・ミュージシャン、ギタリスト。ロキシー・ミュージックのメンバーとして知られる。ソロ、レコード・プロデューサーとしても活動している[1][2]。 人物・経歴生い立ちコロンビア人の母とイギリス人の父を持ってロンドンで生まれた。本名はフィル・ターゲット=アダムス。幼少・少年時代を家族と共にキューバやベネズエラで過ごした。キューバで暮らしていた6歳の時に母親のスパニッシュ・ギターを手にし、キューバ革命の大変動期の頃はキューバ・フォークソングを好んで演奏していた。子供時代に体験したキューバ革命の衝撃は彼の音楽性に影響を与えた[1]。 ベネズエラで暮らしていた8歳の時にエレクトリックギターを習い始めた。10代の頃は1960年代のロックンロールとラテンアメリカのリズムを融合することに夢中になっていた[1]。 黎明期1968年、ダリッジ・カレッジに在学中、学友だったビル・マコーミック(ベース)、2年後輩のチャールズ・ヘイワード(ドラム)とプー・アンド・オーストリッチ・フェザー(Pooh and the Ostrich Feather)を結成した[4]。 カレッジを卒業したマンザネラとマコーミックは、翌年にヘイワードと再会。3人は1970年にデイヴ・ジャレット(キーボード)を迎えてジャズ・ロック・バンドのクワイエット・サンを結成した[2]。彼等は1971年の夏まで活動して、解散した[4]。 ロキシー・ミュージック1971年、マンザネラはロキシー・ミュージックのギタリストのオーディションを受けた。ロキシー・ミュージックは同年9月に初代ギタリストのロジャー・バンが脱退したので、後任を探していた。マンザネラはオーディションでは不合格だったが、数か月後にミキシング担当として採用された[4]。その約一か月後、オーディションに合格してメンバーになっていた元ザ・ナイスのデヴィッド・オリストが脱退したので、彼は1972年初頭に3代目のギタリストとして加入した[1][5]。それまで彼は出生名で活動していたが、ロキシー・ミュージックに加入したのをきっかけに、母親の姓を使ってフィル・マンザネラと名乗るようになった。 →詳細は「ロキシー・ミュージック」を参照
1973年7月にはブライアン・イーノがロキシー・ミュージックを脱退した[6]。以後、マンザネラのギター演奏の風合はイーノの電子音の風合を補った[2]。サード・アルバム『ストランデッド』(1973年)で「アマゾナ」をフェリーと共作して、収録曲の作者に初めて名を連ねた。その後も「アウト・オブ・ザ・ブルー」、「プレーリー・ローズ」、「ナイチンゲール」などをフェリーと共作した。 1975年には初のソロ・アルバム『ダイアモンド・ヘッド』を発表。同アルバムにはイーノやアンディ・マッケイ、ジョン・ウェットン[注釈 1]などロキシー・ミュージックの関係者が参加した[2]。またマコーミックらクワイエット・サンのオリジナル・メンバーに呼びかけて、未発表のままだったオリジナル曲を録音してアルバム『メインストリーム』を発表した[7]。 1976年6月末にロキシー・ミュージックが解散を発表する[8]と、イーノ、マコーミック、フランシス・モンクマン(キーボード)、サイモン・フィリップス(ドラム、リズムジェネレーター)、ロイド・ワトソン(スライドギター、ボーカル)らと801を結成した。彼等は9月3日のクイーン・エリザベス・ホールでのコンサートを録音して、同年11月にアルバム『801 ライヴ』として発表した[9]。 同年、ニュージーランドのスピリット・エンズのセカンド・アルバムのプロデューサーを務めた[8]。 1977年2月にフェリーが開始したワールド・ツアーに参加。6月初旬には、同ツアーのメンバーとしてフェリー、ウェットンらと共に初来日した[注釈 2][10]。同年後半にはワトソンを除く801のメンバーとゲスト・ミュージシャンと共にアルバム『リッスン・ナウ』を制作して、フィル・マンザネラ / 801の名義で発表した[11]。 ロキシー・ミュージックは1978年夏に再結成され、マンザネラはアルバム『マニフェスト』(1979年)の発表に伴なったツアーの一環として同年4月末に行なわれたロキシー・ミュージック初の日本公演で、再来日した。彼等は1983年2月にアルバム『アヴァロン』(1982年)のツアーで2度目の来日し、ツアー終了後に解散した。 その後マンザネラは『リッスン・ナウ』に続いて、『K-スコープ』[12](1978年)、『プリミティヴ・ギターズ』(1982年に)、『サザンクロス』(1990年)を発表した[2]。1987年にはウェットンとの共作アルバム『ウェットン・マンザネラ』も発表した。 1985年、マッケイらとエクスプローラーズ(The Explorers)を結成し、アルバム"Explorers"(1985年)を発表するが商業的な成功には至らなかった。1988年と1989年にマンザネラ & マッケイとしてアメリカでアルバムを2作発表。1990年にもマッケイと組んでクリスマスソング"Christmas"を発表した。 1990年代は世界中で活動する。スペインのセビリアで開催された「Guitar Legends」では音楽監督を務め、またギタリストとしてボブ・ディランやキース・リチャーズらと共演した[1]。1999年に発表したソロ・アルバム『ヴォゼロ』はラテンアメリカ色の強い作品となった[2]。 2001年、フェリー、マッケイとロキシー・ミュージックの再結成を主導してワールド・ツアーを行った[13]。 2005年に発表したアルバム『50ミニッツ・レイター』にはイーノも参加した[2]。 この頃よりデヴィッド・ギルモアのソロ・ライブのツアー・メンバーとなり、多くのライブ活動に参加し、その映像も多く残っている。 2019年、ロキシー・ミュージックがロックの殿堂入りを果たした。マンザネラは8人の受賞者[注釈 3]の一人に選ばれた。 ディスコグラフィスタジオ・アルバム
ライブ・アルバム
コンピレーション・アルバム
ロキシー・ミュージック→詳細は「ロキシー・ミュージック」を参照
クワイエット・サン
801
エクスプローラーズ
マンザネラ & マッケイ
脚注注釈
出典
引用文献
参考文献
出版物
関連文献
外部リンク
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