キング・クリムゾン
UNCERTAIN TIMES JAPAN TOUR 2018 (2018年)
基本情報 出身地
イングランド ロンドン ジャンル
活動期間
1968年 (1968 ) - 1974年 (1974 )
1981年 (1981 ) - 1984年 (1984 )
1994年 (1994 ) - 2011年 (2011 )
2013年 (2013 ) - 2021年 (2021 )
レーベル
公式サイト
DGMディストリビューション・ジャパン (@DGM74921370) - X(旧Twitter) メンバー
旧メンバー
別記 参照
キング・クリムゾン (King Crimson )は、イングランド 出身のプログレッシヴ・ロック ・バンド [ 6] [ 7] [ 2] 。
同国のミュージシャン、ロバート・フリップ が主宰を務めていることで知られ、同分野で重要な位置に格付けられているグループの一つ。活動は中断期間を挟みながら50年以上に及び、ロック史に大きな足跡を刻んでいる。
概要
1968年 12月に結成。アルバム 『クリムゾン・キングの宮殿 』で1969年 にデビュー。以降、リーダーのロバート・フリップ はバンドのメンバーを次々と替えていき、音楽性も多様に変遷を辿った。
活動は、大きく4つの時期に分けられる。
管弦楽器やメロトロン を廃したギター・ロックに徹し、これまでの音楽性を転換。音響機器の飛躍的な進歩もあり、ニュー・ウェイヴ の時代に沿ったスタイルを展開した。通称ディシプリン期とも呼ばれる。
公演活動にシフトし、ライブサウンドに特化。過去の作品を高度なレベルで演奏する、洗練かつ円熟した時代。
【補足】
各期の細かな分類については諸説ある。構成メンバーを基準に、“第1期”、“第2期”……などと分類する点は共通しているが、「デビューからファースト・アルバムのリリース当時」のメンバーを“第1期”、サード・アルバム『リザード 』のころを“第2期”、4thアルバム『アイランズ 』のメンバーを『第3期』……とする分類や、『リザード』までを“第1期”、『アイランズ 』のころを“第2期”、『太陽と戦慄 』から1974年 解散までを“第3期”……とする分類などといったように、「アルバム自体や、その時のメンバー単位で分類する方法」と、「デビューから1974年 の解散時まで」を“第1期”、「1980年代 再結成からの活動期間」を“第2期”、「1994年 からの活動期間」を“第3期”……と、「連続活動期間で分類する方法」などがあり、統一がなされていない。音楽評論家の市川哲史 は、『太陽と戦慄』の時期を「再結成」、1980年代の『ディシプリン』から『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』の時期を「再々結成」、1990年代のダブル・トリオの時期を「再々々結成」として、キング・クリムゾンのCDのライナノーツでもその様に記述している。ここでは、前者の分類方式に準じて述べていくが、「デビュー当初の“第1期”」後については、極力、構成メンバーやアルバム・タイトルなどで記述することとする。
来歴
1960年代 クリムゾン・キングの宮殿(1968年-1969年)
1968年 、ジャイルズ兄弟(マイケル・ジャイルズ 、ピーター・ジャイルズ )とロバート・フリップの3人によるバンド「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ 」から発展。同年6月にマルチプレイヤー のイアン・マクドナルド 、作詞・ライブ時の照明担当のピート・シンフィールド 、女性ボーカルのジュディ・ダイブル (元フェアポート・コンヴェンション )が加わる。しかし翌7月にダイブルが抜け、同12月にフリップの古くからの友人であったボーカリスト 兼ベーシスト のグレッグ・レイク が参加。同11月末にピーター・ジャイルズが脱退し、フリップ、Mジャイルズ、マクドナルド、レイクとなり陣容が正式に固まった。
翌1969年 初頭、バンド名は加入前にマクドナルドとシンフィールドが共作した曲「クリムゾン・キングの宮殿 」から採られ、「キング・クリムゾン 」に決定。シンフィールドは、メンバーの反対を押し切って付けたとインタビューに答えている。本格化した活動が始まり、公開リハーサルの後、ライブ活動とアルバム制作を並行した。当初、バンドローディだったピート・シンフィールドは、作詞やライヴのライティングでの貢献から演奏に不参加ながらも正規メンバーとなった。
同年10月、デビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿 』を発表。それは今後のロック・ミュージックを左右する雛形が詰まったと言える作品で、業界からも非常に高い評価を得る[ 8] 。全英アルバムチャート 5位まで上昇したが、当時から雑誌のレコード・レビューなどで「1969年に、ビートルズ の『アビイ・ロード 』を1位から転落させたアルバム」といった内容で日本盤LP帯に紹介されてしまった。[ 注釈 1] 。
このファースト・アルバム制作当初、「ムーディー・ブルース 」のプロデューサー トニー・クラークがプロデュースを担当する繋がりで、同バンドのレーベル「スレッショルド 」からリリースする話もあったが、結局はクラークと制作面の相違で決裂。最終的にバンド側がセルフプロデュースして「アイランド・レコード 」からのリリースとなった。また、現在はフリップがバンドリーダーを務めているが、この当時の作曲やアレンジを含めた音楽面では、マクドナルドが優勢であったとされる。特に、キーボード(メロトロン )、サックス、フルートを導入し、新たな音楽を創造した功績は大きいとされている。
1stアルバム発表後、イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズは同年末で脱退し、ロック・デュオ「マクドナルド・アンド・ジャイルズ 」結成に向かう。これによりオリジナル・ラインナップは早くも崩壊し、アルバム僅か一枚の短命で終わる。
1970年代 アイランズ期(1970年-1972年)
バンドは崩壊後も契約消化のため、アルバム・リリースを継続せねばならなかった。1970年 からの新アルバム制作にサックス及びフルート奏者 メル・コリンズ が正規加入、脱退していたジャイルズ兄弟らの協力やゲストプレイヤーを招いて、セカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ 』を完成させた。ただし、グレッグ・レイクが4月以降からレコーディングに来なくなり、そのまま脱退。「エマーソン・レイク・アンド・パーマー 」結成に動き出していた。そのためライブツアーは実施されていない。その後、ボーカリスト兼ベーシスト ゴードン・ハスケル とドラマー アンディ・マカロック を正規メンバーに迎えた上に、ゲストプレイヤーの協力も仰いで、サード・アルバム『リザード 』を制作して同年末リリース。ライブツアーを実施しようとしたが、リハーサル段階でハスケルとマカロックが脱退したので頓挫した。
1971年 初頭、残った正規メンバー フリップ、コリンズ、シンフィールドは、ライブ活動ができる状態を模索する。まずボーカリスト ボズ・バレル とドラマー イアン・ウォーレス を獲得。そしてベーシスト は適任者探しが難航した末、バレルが兼任するという形に決まり、フリップがベースギターの素人であったバレルに奏法を教授した。新作アルバムの制作に入る前に、4月からドイツや英国ツアーで1年以上ぶりのライブ活動を行う。
同年夏、新作アルバムの制作に着手し、並行して英国ツアーを継続。11月からは北米ツアーに入る。この間メンバー同士の確執が浮き彫りになる。特にフリップとシンフィールドの、ブレーン両名の険悪化は致命的であった。そんな中の同年末、4thアルバム『アイランズ 』を発表。そしてシンフィールドは解雇された。さらに翌1972年 早々のリハーサル段階でもフリップと残りのメンバーとの間の意見統一ができず、結局フリップはバンドの解散を決意。マネジメント側は既に北米ツアーの向こう2ヶ月のスケジュールを組んでいたため、4人は渋々同意して渡米し、ツアーが終了した同4月頭に解散した。
ツアー終了後フリップのみ英国へ帰国し、残りの3人は遠征先で意気投合したアレクシス・コーナー とバンド「スネイプ」を結成。その後バレルは、ポール・ロジャース のバンド「バッド・カンパニー 」のベーシストとして参加。シンフィールドはグレッグ・レイクの呼びかけに応じて「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」に作詞で協力し、ソロ・アルバム『スティル』を制作した。後年にフリップは、この時期のバンド解消を「彼らとではアイデア(後の『太陽と戦慄』路線)を具体化できなかったから」と説明している。
同年6月、初のライブ・アルバム『アースバウンド 』を廉価版にてリリース。これは北米ツアーの音源でカセットテープによって収録された劣悪な音質でありながら、対立が深まるメンバー同士の爆発寸前の驚異的な演奏であり、後々まで批評を受けた[ 注釈 2] 。
1970年代中半 インプロビゼーション期(1972年-1974年)
当時のラインナップ(左からウェットン、クロス、フリップ、ブルーフォード)
解散が決定した1972年 初頭からの北米ツアーの期間中フリップは、既に次期クリムゾン再開に向けての青写真を描いていた。同年夏、ドラマーのビル・ブルーフォード を「イエス 」から獲得。「ファミリー 」のベーシスト兼ボーカリストでフリップの大学時代の友人ジョン・ウェットン 、デレク・ベイリー が主宰しクリムゾンが影響を受けた即興集団「カンパニー 」のパーカッショニスト ジェイミー・ミューア 、そして新鋭のキーボード兼ヴァイオリニスト デヴィッド・クロス が集結し夏からリハーサルを重ね、同年10月から再始動。即興演奏(インプロビゼーション) を主体に、新たな楽曲を生み出す技巧派集団に生まれ変わった。
1973年ライブ・ツアー
ここで再びバンドとしてのピークを迎え、5th『太陽と戦慄 』6th『暗黒の世界 』7th『レッド 』の3枚のアルバムをメンバー変遷を経ながらもリリースし、ライブ・ツアーも精力的にこなした。
しかし、ミューアは『太陽と戦慄』発表前の早々に脱退。1974年 にはデヴィッド・クロスとヘヴィ志向のウェットンとの間で音楽的衝突が浮き彫りになり、クロスを一方的に解雇し、アルバム『レッド』制作の頃は正規メンバーがフリップ、ウェットン、ブルーフォードの3人に減少していた。
ウェットンの呼び掛けにより、数名の旧メンバーがゲスト参加してアルバムを完成させたが、リリース直後にフリップは解散を宣言。直前まではメディアに、ゲストで参加したかつての創設メンバー イアン・マクドナルドを再度迎えてのバンド継続も匂わせていたが、フリップは自身だけでも脱退するつもりでいた。実際の裏側では、スティーヴ・ハケット (ジェネシス )を自分の後任候補に据えての存続をフリップは提案していたが、マネジメント側に却下されていた事実が後年に明かされている[ 10] 。
解散後の1975年 に、北米ツアーのライブを収録したアルバム『USA 』をリリース。元音源にはヴァイオリン 兼キーボード(主にメロトロン )担当のデヴィッド・クロスが参加していたが、数曲が編集段階でエディ・ジョブソン の演奏に差し替えられている(またこの頃、「太陽と戦慄 パート2」(5thアルバム『太陽と戦慄』収録)に酷似した曲が映画「エマニエル夫人 」で使用され、フリップの訴えによる裁判が行なわれている。裁判後に和解)。
1980年代 ニュー・ウェイヴ期(1981年-1984年)
解散から7年後の1981年 、フリップは、かつてのメンバーであるビル・ブルーフォード と共同で、「ディシプリン」という名のプロジェクトを開始した。アメリカ人ベーシスト、トニー・レヴィン が加入[ 注釈 3] 。2人目のギタリスト兼ボーカリストに、アメリカ人のエイドリアン・ブリュー が参加した。この4人からなる新グループは、契約しているレーベルの商業的意向もあって再び「キング・クリムゾン」の名義で活動を再開する。
しかし1970年代 までのスタイルからは打って変わり、管弦楽器を廃してギター・ロックに徹し、ポリリズム や当時ムーブメントになっていたニュー・ウェイヴ の要素を取り入れるなど、音楽性が劇的に変化していた(2本のギターとスティック による複雑なアルペジオ の絡みが特徴的)。このような形での再結成に対して批判の声も聞こえ、「キング・クリムゾンがトーキング・ヘッズ 化した」という批判も一部から出た。旧メンバー ジョン・ウェットンも当時、「英国人以外が参加しているこのラインナップを、クリムゾンとして認めない」旨の発言をしている。
同1981年9月、当初のバンド名をセルフタイトル とした8thアルバム『ディシプリン 』リリース。同1981年(昭和56年)12月に初来日し、渋谷公会堂 、浅草国際劇場 を始めとする全国ツアーを行なった。
1982年 、9thアルバム『ビート 』を発表。元々『ディシプリン』のみのプロジェクトであったため新素材がほぼ皆無で、準備不足のなか創作に苦労したエピソードを、後に明かしている。
1984年 リリースの10thアルバム『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー 』に至っては、メンバーのモチベーションはもはや低下した中で制作された。同年(昭和59年)春に再来日し、北米ツアー後の7月に解散を決定する。フリップは「レーベルとの契約は、アルバム3枚リリースが条件であった。本来意図したアイデアは『ディシプリン』で完結している」と後年に明かしている。
1990年代 ダブルトリオ期(1994年 - 1996年)
1980年代 末頃からフリップの活動も活発になり、再び再結成の機運が高まっていく。1992年 にフリップは音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、自身が管理する独立レーベル「Discipline Records (後のDiscipline Global Mobile。通称 DGM)」を設立。
さらに、デヴィッド・シルヴィアン との共作などで手応えを感じたフリップは、1994年 から遂にバンドを再始動させる。1980年代 のメンバーから更に増員して6人編成となり、3人二組のユニットを配置するスタイルを構築(通称 ダブルトリオ )。サウンド面では、1974年作『レッド』で片鱗をみせたヘヴィ路線を継承し、プログレッシブ・メタル を推進した。
このラインナップでEP『ヴルーム 』を制作。慣らし運転も兼ねた南米ツアーを開催し、翌1995年 に11年ぶりの11thアルバム『スラック 』を発表。そしてフリップは、キング・クリムゾンが実践するヘヴィサウンドを「ヌーヴォメタル (Nuovo Metal)」と名付けた。アルバムに伴うワールドツアーを開始し、数多くのライブ音源をアーカイブ化していく。
1990年代後半 プロジェクト期(1997年-2000年)
長期のライブ・ツアーを終え休息した後の1997年 、集合したバンドはリハーサル段階で相違が大きく内紛状態になってしまう。また、メンバーそれぞれ自身の仕事を掛け持ちしており、スケジュールの確保も影響していた。そこでフリップは6人編成を一旦棚上げにして、次作へのアイデアを蓄積させていく意味も含め「プロジェクト (ProjeKct) 」という名義の小ユニット活動に一時シフト。これを2000年まで断続的に続ける。またこの期間、グレッグ・レイクもしくは、ジョン・ウェットンを含む4人のクラシックメンバー再結成が企図されたが、これは計画段階で頓挫している。
2000年 、プロジェクトで培ったアイデアを結集した「ProjeKct X」名義のアルバム『ヘヴン・アンド・アース』をリリース。ただし、ビル・ブルーフォードが、電子ドラム を使用したいフリップの方針に難色を示し、また自らのバンド「アースワークス 」の活動に専念を希望し、1997年 に脱退していた。トニー・レヴィンも先約のスケジュールを優先し、1998年 から離脱したまま復帰はしなかった。
2000年代 ヌーヴォメタル期(2000年-2004年、2008年)
2000年(平成12年)、ダブルトリオ瓦解後の残る4人による12thアルバム『ザ・コンストラクション・オブ・ライト 』をリリース。結果的にセールスは大きく振るわなかった。来日公演や北米ツアーを開催するが早くも次作に向けた構想に取り組み、バンド独自のヘヴィサウンド「ヌーヴォメタル 」を、これまで以上に推し進める。
ベルギー・ドゥール公演 (2003年7月)
2001年 から次作に向けた短期ツアーとレコーディングを並行して実施。同年にEP『レヴェル・ファイヴ』、翌2002年 にもEP『しょうがない (Happy with What You Have to Be Happy With)』をリリース。そして2003年 、ヌーヴォメタルの集大成となる13thアルバム『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ 』を発表。同年に来日公演を含むワールドツアーを開催する。
同年秋、ダブルトリオ編成からのメンバーであったトレイ・ガンが脱退を表明。入れ替わりに、トニー・レヴィンが復帰した。翌2004年 から新ラインナップでリハーサルを重ねるが、想像以上に上手くいかず頭打ち状態に陥った。多額の経費をかけた割に実りの無さを痛感したフリップは、今後のプランを白紙としバンドは長期の活動休止に入る。
2008年 4月、今後の活動計画を話し合う会合とリハーサルが再開。更に新メンバーとして「ポーキュパイン・トゥリー 」のドラマー、ギャヴィン・ハリソン の加入が明らかになった。同年8月に北米ツアーを実施。その後、更なるツアーが予定されていたが、エイドリアン・ブリューが自身のソロツアーとダブルブッキングしてしまったことで頓挫。翌年のデビュー40周年記念ツアーも視野にあったが、フリップとブリューの確執も取り沙汰され、また全てが白紙になった。
2010年代 トリプルドラム期(2013年-2016年)
2011年 、バンド休止中の間フリップは、以前に「21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド 」でも活動していた旧メンバーのメル・コリンズ、ジャッコ・ジャクジク らと新たなキング・クリムゾン・プロジェクトを立ち上げ、アルバム『ア・スケアシティ・オブ・ミラクルズ』を発表。次期クリムゾンに向けた活動を再開する。
ところが、翌2012年 にフリップが音楽業界からの引退を表明し、バンドの活動終了を宣言。「ユニバーサル・ミュージックと出版権について問題が勃発し、法廷闘争に専念するため」と明かしている。
2013年 、自社レーベル「DGM 」のブレーンでもあるデヴィッド・シングルトンが、キング・クリムゾンのトリビュート バンド結成を企図する。これはクリムゾン・プロジェクトらのメンバーに、旧メンバー ジョン・ウェットン を加えた「クリムゾンDNA」という新グループ構想であった。フリップはシングルトンの構想に賛同し、裏方からの支援に着手しようとする[ 11] 。
しかしフリップは、ユニバーサル・ミュージックとの係争に一段落ついていた事情もあって、次第に復帰の意欲が湧きはじめ引退の前言を撤回。紆余曲折を経た後 オフィシャルサイト上より、かつてのフリップ主催「ギタークラフト 」に参加して知己であったビル・リーフリン の加入による編成で、正規のクリムゾン再始動を表明した[ 12] 。
オランダ・ユトレヒト公演(2015年9月 (2015-09 ) )
2014年 6月、ライブ活動の再開を発表。メンバー構成は、フリップ、メル・コリンズ、トニー・レヴィン、ジャッコ・ジャクジク、そして3人のドラマー、パット・マステロット、ギャヴィン・ハリソン、ビル・リーフリンを前列に配置した「トリプルドラム 」の編成で、9月9日よりアメリカにて17回公演のツアーを開始した。
2015年 (平成27年)12月、約12年ぶりに日本公演を開催[ 13] 。
2016年 、リーフリンが一時降板し、代役にジェレミー・ステーシー が9月の欧州ツアーから参加[ 14] 。12月、創設メンバーのグレッグ・レイク が死去[ 15] 。
2010年代後半 ダブルカルテット期(2017年-2020年)
2017年 、ビル・リーフリンが復帰して、キーボード担当に変更。ジェレミー・ステーシーはそのまま正規メンバーに昇格し、8人編成に拡張する[ 16] 。そしてフリップは、ラインナップ構成の呼称を「ダブルカルテット・フォーメーション 」と命名した。
同年5月、昨年他界したデヴィッド・ボウイ 追悼のトリビュート作品EP『ヒーローズ』をリリース[ 17] 。その後から全米ツアーを開始[ 18] 。
同年10月、リーフリンが秋公演に不参加となり、代役サポートにマルチ奏者クリス・ギブソンがキーボードを担当して全米ツアーを再開。
2018年 4月、リーフリンが再復帰し、欧州ツアーを開始。同年(平成30年)11月末、結成50周年を記念した来日ツアーが開幕し[ 19] 、集大成となるライブを翌12月まで開催する[ 20] 。
2019年 4月、デビュー50周年記念欧米ツアーの概要を発表し、今年一杯はリーフリンが再度の休養。代役サポートとして、フリップと共演歴のあるサックス奏者セオ・トラヴィス (ソフト・マシーン )のキーボード担当が内定していたが[ 21] 、リハーサルが芳しくなかったため白紙に戻した。結果、今シーズン以降は現行メンバーのみの7人編成で対応し、ジェレミー・ステーシーがキーボードを兼任する。
2020年 3月、長期休養中だったビル・リーフリンが病没[ 22] 。さらに新型コロナウイルス感染症が世界的に大流行 した影響で、年内のスケジュールを翌年に延期。
2020年代 プロジェクトの終焉(2021年- )
2021年 夏から北米ツアーを再開[ 23] 。そしてジャッコ・ジャクジクは北米ツアーについて、バンドにとって最後になる可能性を示唆する。各種イベント延期分のしわ寄せで会場確保が今後困難になること、正常に戻った頃には年長メンバーの高齢化が進行している健康事情を説明した[ 24] 。
同11月末から3年ぶりの来日ツアーを開催[ 25] 。そしてトニー・レヴィンも前述の北米ツアーと同様に、ツアーの形態による開催はこの日本公演をもって最後を示唆した。ロバート・フリップから『ツアーの全行程を「日本で幕を閉じる」』と説明された話を明かし、コロナ禍 で開催実現に奔走してくれた関係者に謝意を伝えている[ 26] 。
2022年 2月、創設メンバーのイアン・マクドナルド が死去[ 27] 。3月、バンドのドキュメンタリー映画『In the Court of the Crimson King』を公開上映[ 28] 。
同年4月、メンバーのギャヴィン・ハリソンが音楽メディアの取材で、バンドの状況を自分なりに語った。昨年末の最終ツアーは『2013年からのプロジェクトが完走し、あくまで一つのサイクルが終了したに過ぎない』『ロバート・フリップは物事をプロジェクト単位(○○年周期)で考えるため、その度に白か黒か(継続なのか解散なのか)といった判断はしない』と私見を述べ、今後どんなケースもあり得ると説明している[ 29] 。
そして同年7月、ロバート・フリップ本人が取材に答え、『我々の年齢の現実からすれば、今後のツアーは難しい』『キング・クリムゾンのギターパートは演奏オリンピックのようなもので、若い頃のようなアスリート能力を求められても応えるには困難』と、ツアーの再開は明確に否定した[ 30] 。
メンバー
※2022年2月時点
主宰
最終ツアーラインナップ
旧メンバー
マイケル・ジャイルズ (Michael Giles) - ドラムス(1968年–1969年)
イアン・マクドナルド (Ian McDonald) - キーボード/管楽器(1968年–1969年) ♰RIP. 2022
グレッグ・レイク (Greg Lake) - ボーカル/ベース(1968年–1970年) ♰RIP. 2016
ピート・シンフィールド (Pete Sinfield) - 創作/プロデュース(1968年–1971年)
ゴードン・ハスケル (Gordon Haskell) - ボーカル/ベース(1970年)♰RIP. 2020
アンディ・マカロック (Andy McCulloch) - ドラムス(1970年)
イアン・ウォーレス (Ian Wallace) – ドラムス(1971年–1972年) ♰RIP. 2007
ボズ・バレル (Boz Burrell) - ボーカル/ベース(1971年–1972年) ♰RIP. 2006
ジョン・ウェットン (John Wetton) - ボーカル/ベース(1972年–1974年) ♰RIP. 2017
ジェイミー・ミューア (Jamie Muir) - ドラムス/パーカッション(1972年–1973年)
ビル・ブルーフォード (Bill Bruford) - ドラムス(1972年–1974年、1981年–1984年、1994年–1997年)
デヴィッド・クロス (David Cross) - ヴァイオリン (1972年–1974年)
エイドリアン・ブリュー (Adrian Belew) - ボーカル/ギター(1981年–1984年、1994年–2008年)
トレイ・ガン (Trey Gunn) - ベース/スティック(1994年–2003年)
ビル・リーフリン (Bill Rieflin) - キーボード/ドラムス(2013年–2020年) ♰RIP. 2020
サポート
クリス・ギブソン (Chris Gibson) - キーボード(2017年)
ラインナップの変遷(主な担当パート)
King Crimsonファミリーツリー PDF
主宰(以下、全期間を通じて在籍)
ロバート・フリップ - Guitars, Frippertronics/ Soundscapes, Mellotron & Synthesizers
グレッグ・レイク(2008年)
イアン・マクドナルド(2009年)
ピート・シンフィールド(2009年)
『ポセイドンのめざめ』
グレッグ・レイク - Vocals(録音直後に脱退し、EL&P 結成)
メル・コリンズ - Saxophone & Flute
ピート・シンフィールド - Words
マイケル・ジャイルズ - Drums (録音のみ復帰)
『リザード』
ゴードン・ハスケル - Vocals & Bass
メル・コリンズ - Saxophone & Flute
アンドリュー・マカロック - Drums
ピート・シンフィールド - Words
メル・コリンズ
ゴードン・ハスケル
キース・ティペット(2007年)
Lineup #2 『アイランズ』『アースバウンド』
ボズ (ボズ・バレル ) - Vocals & Bass(脱退後、ポール・ロジャース 率いるバッド・カンパニー に加入)
メル・コリンズ - Saxophone, Flute, Mellotron & Vocals
イアン・ウォーレス - Drums & Vocals
ピート・シンフィールド - Words(『アイランド』製作直後に正式脱退し、EL&P の歌詞を担当)
このほかにも、ゲスト・ミュージシャンが参加している
ボズ・バレル(1976年)
イアン・ウォーレス(2005年)
Lineup #3 『太陽と戦慄』『暗黒の世界』『レッド』『USA』
ジョン・ウェットン - Vocals & Bass(解散後、U.K. やエイジア を結成し、成功する)
デヴィッド・クロス - Violin, Viola, Flute, Keyboards & Mellotron(『暗黒の世界』発表後に脱退)
ビル・ブルーフォード - Drums & Percussion(イエス から加入。後に、ウェットンと共にU.K.結成)
ジェイミー・ミューア - Percussion & Drums(元デレク・ベイリー のカンパニー、『太陽と戦慄』発表後に脱退。後にミュージシャンから画家に転向)
『レッド』録音時にはイアン・マクドナルドやメル・コリンズなどの旧メンバーがゲスト・ミュージシャンとして参加している。また、ライブ・アルバム『USA』において、エディ・ジョブソン (Violin & Keyboards、後に前述のU.K.結成)がフリップとウェットン立ち会いの元、2時間程度を掛けてデヴィッド・クロスのヴァイオリンとエレピパートをいくつか差し替え録音した。
ジョン・ウェットン(2010年)
デヴィッド・クロス(1973年)
ビル・ブルーフォード(2008年)
Lineup #4 『ディシプリン』『ビート』『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペア』(1980年代再結成時)
エイドリアン・ブリュー - Vocals, Guitars & Percussion
トニー・レヴィン - Bass, Chapman stick, Synthesizers & Vocals
ビル・ブルーフォード - Drums & Percussion
エイドリアン・ブリュー(2009年)
トニー・レヴィン(2010年)
Lineup #5 『ヴルーム』『スラック』(1990年代再々結成時)
エイドリアン・ブリュー - Vocals, Guitars & Percussion
トニー・レヴィン - Bass, Chapman stick, Synthesizers & Vocals
トレイ・ガン - Warr Guitars, Bass
ビル・ブルーフォード - Drums & Percussion
パット・マステロット - Drums & Percussions
Lineup #6 『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』〜『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』
エイドリアン・ブリュー - Vocals & Guitars
トレイ・ガン - Warr Guitars, Bass(2007年 、エディー・ジョブソン やその他のミュージシャンとともにUKZ を結成)
パット・マステロット - Drums & Percussion
トレイ・ガン(2005年)
パット・マステロット(2008年)
Lineup #7(2008年)
エイドリアン・ブリュー - Vocals, Guitars & Keyboards
トニー・レヴィン - Bass, Chapman stick & Vocals
パット・マステロット - Drums & Percussion
ギャヴィン・ハリソン - Drums & Percussion(ポーキュパイン・トゥリー 兼任)
Lineup #8 『ヒーローズ』(2013年以降)
ジャッコ・ジャクジク - Vocals, Guitars
メル・コリンズ - Saxophones, Flute
トニー・レヴィン - Bass, Chapman stick, Vocals
パット・マステロット - Drums & Percussion
ギャヴィン・ハリソン - Drums & Percussion
ビル・リーフリン - Drums & Percussion, Keyboards(休養:2016年秋冬、2017年秋冬、2019年、2020年死去)
ジェレミー・ステーシー - Drums & Percussion, Keyboards(サポート:2016秋冬、正規:2017以降)
サポート
クリス・ギブソン - Keyboards(2017年秋冬)
ジャッコ・ジャクジク(2014年)
ギャヴィン・ハリソン(2011年)
ビル・リーフリン(2009年)
ジェレミー・ステーシー(2007年)
独立レーベル「ディシプリン・グローバル・モービル」
ディシプリン・グローバル・モービル (Discipline Global Mobile)は、バンドを主宰するロバート・フリップ が1992年 に設立した独立系レコードレーベル 。共同責任者はエンジニアを兼任するデヴィッド・シングルトン。名前の由来およびロゴは8thアルバム『ディシプリン 』から。
概要・背景
キング・クリムゾンはデビュー時から「E.G.マネージメント」に籍を置き、音源も同社のレーベル「EGレコード 」が管理していた。しかし1990年 頃から同マネージメントが経営難に陥り、ロイヤリティの支払いが滞りはじめ、さらに版権をヴァージン・レコード とBMG に売却されてしまう。この状況に反発していたフリップは、原盤の所有権を主張し訴訟にまで発展する[ 31] 。
その間の新譜リリースに対応させるため、1990年代 初頭から仕事を共にしていた音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、新たなレーベル「Discipline Records 」(現行の『Discipline Global Mobile (通称 DGM)』)を設立。裁判は1999年 まで7年間続いた末に勝訴し、旧レーベル側と和解して旧譜の原盤権を全て認められた。
以降、バンドに関連する音源は全て同レーベルが発売元となり、外部アーティストとの契約・管理も業務とするようになった。また、海賊盤 対策も徹底しており、1990年代 以降からは(キング・クリムゾンの)ほぼ全てのライブを自前で録音しアーカイブ化。過去の海賊盤音源も独自にリマスターを施してオフィシャルでリリースし、違法販売の芽を潰している。
2022年 、日本の供給販売元であったWOWOWエンタテインメント(旧WHDエンタテインメント)がレーベルを閉鎖。その後の受け皿として同社のディレクターであった音楽ライター深民淳(元BURRN! 編集者、元METAL GEAR編集長など)らがスタッフとなり[ 32] 、DGMの日本支社「DGMディストリビューション・ジャパン 」を設立した[ 33] 。
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
ライブ・アルバム
コンピレーション・アルバム
ミニ・アルバム(EP)
日本公演
1981年(昭和56年)
1984年(昭和59年)
1995年(平成7年)
2000年(平成12年)「THE CONSTRUKCTION OF LIGHT TOUR 2000」
10月2日 – 東京トリビュート・トゥ・ザ・ラブ・ジェネレーション
10月3日 – 神奈川県民ホール
10月4日、5日、7日 – 渋谷公会堂
10月9日 – 名古屋市公会堂
10月10日 – 大阪フェスティバルホール
10月11日 – メルパルク ホール福岡
10月13日 – 仙台イズミティ21大ホール
10月15日、16日 – 中野サンプラザ
2003年(平成15年)「THE POWER TO BELIEVE JAPAN TOUR 2003」
2015年(平成27年)「THE ELEMENTS OF KING CRIMSON TOUR in JAPAN 2015」
2018年(平成30年)「UNCERTAIN TIMES JAPAN TOUR 2018」
11月27日、28日、29日、30日 – 東京Bunkamuraオーチャードホール
12月2日 – 札幌文化芸術劇場 hitaru
12月4日 – 仙台サンプラザホール
12月7日 – 石川本多の森ホール
12月9日、10日 – 大阪グランキューブ
12月12日 – 福岡サンパレス
12月14日 – 広島文化学園HBGホール
12月17日、18日、19日 – 東京Bunkamuraオーチャードホール
12月21日 – 名古屋国際会議場センチュリーホール
2021年(令和3年)「MUSIC IS OUR FRIEND JAPAN 2021」
11月27日、28日 – 東京国際フォーラム ホールA
11月30日 – 名古屋市公会堂 大ホール
12月2日、3日 – 大阪フェスティバルホール
12月5日 – 立川ステージガーデン
12月7日、8日 – 東京Bunkamuraオーチャードホール
備考補足
グレッグ・レイク脱退後、所属事務所 EG はフリップが知らぬ内に新ボーカリスト探しを算段し、エルトン・ジョン を250ポンドのギャラで雇おうとしたがレコードを一聴したフリップにより却下された。ブライアン・フェリー はオーディション後「キング・クリムゾンのボーカリストとしてはマッチしないが、惜しい人材」とフリップに評価され、後にロキシー・ミュージック がEG所属となるきっかけとなった。
1970年 に一時的にクリムゾンが活動停止していた時、イエスを脱退したピーター・バンクス の後任としてフリップはイエスへの参加を要請されたが、事務所の問題で実現しなかった。この時に交流ができた縁で、イエスのジョン・アンダーソン がキング・クリムゾンのサード・アルバム『リザード 』の「ルーパート王子のめざめ」にボーカルでゲスト参加している。ジョン・アンダーソンによると、「ロバートにイエスに入らないかと言ったら、逆に、君こそキング・クリムゾンに入れよと言われた」とのこと。
1976年 にキング・クリムゾン再起動に失敗し、リック・ウェイクマン とのトリオ結成を断念したウェットンとブルーフォードは、アラン・ホールズワース 、エディー・ジョブソン とU.K. を結成する。ウェットンのインタビューによると、「フリップがバンドを解散したので、残ったリズム隊の2人がキング・クリムゾンのリズムのコンビネーションを維持し展開するために結成した」といった主旨のことをミュージック・ライフ誌に述べていた。
1990年代のキング・クリムゾンの正式結成直前に、フリップはデヴィッド・シルヴィアン とプロジェクト「シルヴィアン・アンド・フリップ」を組み、アルバムをリリースし、来日公演も行っている(この際、マイケル・ブルックと共にトレイ・ガンとパット・マステロット が参加している)。インタビューでは否定していたが、当初「デヴィッドが新しいクリムゾンのボーカリストとして参加する」と噂された。シルヴィアンはフリップに勧誘されたが拒否したとインタビューで述べている。また当初新ラインナップ構想に入っていたリック・マロッタについてはキング・クリムゾンのドラマーに適さなかったとフリップが採用を取りやめている。
これとほぼ前後して、オリジナル・メンバーで再結成されたエマーソン・レイク・アンド・パーマー のCDボックスセット に、同メンバーの演奏による「21世紀のスキッツォイド・マン 」の独自のバージョンが収録されていた(この曲は、1980年代 初頭に、グレッグ・レイクがゲイリー・ムーア と共に行ったライブ・ツアーでも、「クリムゾン・キングの宮殿」と共に演奏された。この2曲のオリジナルは、キング・クリムゾンのファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿 』に収録)。
1996年 、元ジェネシス のギタリスト、スティーヴ・ハケット が来日した際のメンバーとしてマクドナルド、ウェットンが参加しており、第1期の曲から「クリムゾン・キングの宮殿」と「風に語りて」(共にファーストアルバム収録の曲)を演奏した。この様子は、『TOKYOテープス〜ジェネシス・リヴィジテッド・ライヴ1996』としてCD、ビデオなどで正式発売されており、その後DVD 化もされている。
2001年 、トゥール の前座としてツアーを行う。このツアーの最終日、「レッド」の演奏に、トゥールのドラマーであるダニー・ケアリー がゲスト参加した。
2002年 、マクドナルドとジャイルズ兄弟が新バンド結成のために再集結、さらにメル・コリンズ 、ジャッコ・ジャクスジク を加え、21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド が結成された。フリップにも公認され、初期のクリムゾン・ナンバーを演奏してのライブ・ツアーをこなす。同年及び翌2003年 の2回の来日公演も実現した。同バンドはキング・クリムゾンのアルバムの1作目 から4作目 までの曲をレパートリーの中心としていた。マイケル・ジャイルズは結成後1年足らずで脱退、代わってイアン・ウォーレス が参加し2006年まで活動した。しかし、2007年2月のウォーレス病死で活動再開のめどはたっていない。
2006年 9月、スペインの自宅アパートでリハーサル中に心臓発作で急逝したボズ・バレル [ 35] は、生前クリムゾン時代を語ることを拒否し続けたと言われているがOB達との交友はあり、1980年にはシンフィールドのテレビ出演の際にマイケル・ジャイルズ、メル・コリンズ 、ゲイリー・ブルッカー らと共に演奏している。
2011年 、キング・クリムゾン・プロジェクト (King Crimson ProjeKct) としてアルバム『ア・スケアシティ・オブ・ミラクルズ』をリリース。フリップ自らが参加しているのが大きな特徴であり、他にコリンズとジャクスジクを正式メンバーとし、またレヴィンとハリソンがサポートで参加している。2013年 、この5人にドラマー2人を追加したトリプル・ドラム編成での、キング・クリムゾン再始動が発表された。
2011年 以降、ブリューのバンド「エイドリアン・ブリュー・パワー・トリオ」とレヴィンのバンド「スティックメン」(マステロットも参加)のメンバーが合流する形で6人編成の「クリムゾン・プロジェクト」(Crimson Projekct) として活動。この名称はロバート・フリップの命名によるとのこと。
キング・クリムゾン事件
TOKYO FM出版 は1995年 (平成7年)10月25日に書籍『キング・クリムゾン』〈地球音楽ライブラリー〉を発行したが、キング・クリムゾンのメンバーに無断で発行したため、ロバート・フリップ はパブリシティ権 を侵害されたとして出版元のTOKYO FM出版を訴えた。これを「キング・クリムゾン事件」という[ 37] 。第1審ではフリップの勝訴となったが[ 38] 、控訴審ではTOKYO FM出版が逆転勝訴し[ 39] 、以後、記載内容の多くのミスが修正されないまま2007年(平成19年)にも再版されている。
脚注
注釈
^ 英国音楽誌DISC誌1969年11月8日号デヴィッド・シューズの記事「遂にデビューアルバムがアビーロードをトップから引きずり降ろした。」を紹介したものと言われる。そのことについては、複数の日本の評論家が「デマとまではいえないが、ありえるとしたなら、地方の、あるいは、マイナーなチャートではないのか」といった見解を共通して述べていた
^ 元々はミキサー・コンソールに繋がれたカセットテープレコーダーの音源で、演奏後のチェック用にイアン・ウォーレス所有のレコーダーで録音されたもの[ 9] 。
^ フリップとはピーター・ガブリエル のレコーディングで競演したことがある。
出典
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参考文献
関連文献
関連項目
外部リンク