ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ
ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ(Giles, Giles and Fripp)は、イングランドのロック・グループ。1967年8月にマイケル・ジャイルズ(ドラム、ボーカル)とピーター・ジャイルズ(ベース、ボーカル)のジャイルズ兄弟とロバート・フリップ(ギター)によって結成された。 彼等の音楽はポップ・ミュージック、サイケデリック・ロック、フォーク、ジャズ、クラシック音楽の影響といったものを折衷的に混ぜ合わせたようなものだった。やがて彼等は先駆的なプログレッシブ・ロック・バンドのキング・クリムゾンへと進化した。 略歴ジャイルズ兄弟は故郷のドーセット州ボーンマスで、歌えるキーボード奏者を探して新聞広告を出した。それに応えて現れたギタリストのロバート・フリップは、キーボードに精通しておらず歌えなかったにもかかわらず採用された[1]。彼等は1967年の終わりから1968年の終わり頃までロンドンのブロンデスベリー・ロードに住み、家で多くのデモ録音を制作した。初期のデモはすぐにイギリスのデッカ・レコード内に新しく設立されたデラム・レコード部門とのレコーディング契約につながった。 1968年春、約3か月の楽曲制作を経てアルバム『チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ』[注釈 1]をレコーディングしたが、同アルバムは9月13日に発売されると「全世界で」(フリップ談)600部[2]という同年のデラム・レコード最低の売り上げ枚数を記録した。同年6月、イアン・マクドナルド(サックス、フルート、クラリネット)と、元フェアポート・コンヴェンションのジュディ・ダイブル(ボーカル)が加入。'Thursday Morning'のシングル・バージョン[3]にマクドナルドのクラリネットのオーバー・ダビングが追加された[4]。その後、デラムは'She Is Loaded'や'Under the Sky'などを含む秋のスタジオ・セッションからの音源を拒絶した[4][注釈 2]。ダイブルは加入した翌月の7月に脱退した[5]ため、いずれのレコーディングにも参加していない。 同年9月9日、BBCラジオは「My Kind of Folk」(フランシス・ライン・プロデュース)のエピソードを放送し、そこで彼等はシンガーソングライターのアル・スチュワートのバック・バンドを務め、マクドナルドはオルガンを演奏した。曲目は'You Should Have Listened to Al'、'Manuscript'、'Old Compton Street Blues'、'Room of Roots'、'In Brooklyn'だった[6]。合計21分のセッションの記録が存在している。 その後も彼等はホーム・レコーディングを続けた。デモはオーバー・ダビングを可能にするように作り直された高品質の2トラックRevoxレコーダーで制作され、完成したモノラル音源には当時のスタジオ・クオリティに近い優れたサウンドを持つものもあった[7]。 同年11月、BBCにおいて出演番組の試写を見た直後、ピーター・ジャイルズが脱退した[8]。フリップは同郷の知人グレッグ・レイク(ベース、ボーカル)を招聘[9]、フリップ、マクドナルド、マイケル・ジャイルズ、レイクにマクドナルドの曲の詞を書いていたピート・シンフィールドを加えた面々はキング・クリムゾンと名乗り、1969年にアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』でデビューした。 その後1970年、キング・クリムゾンを脱退したマイケル・ジャイルズはピーターと共に、キング・クリムゾンの2作目のアルバム『ポセイドンのめざめ』に客演[注釈 3]。同アルバムの収録曲「平和/終章」にはホーム・レコーディングの'Passages of Time'のメロディの一部が流用された。 ダイブルは、元ゼムのジャッキー・マッコーリーとトレイダー・ホーン(Trader Horne)というデュオを結成した[10]。 1971年、ジャイルズ兄弟とマクドナルドはアルバム『マクドナルド・アンド・ジャイルズ』を発表した。 1976年に発表されたキング・クリムゾンの編集アルバム『ア・ヤング・パーソンズ・ガイド・トゥ・キング・クリムゾン』に、後にキング・クリムゾンのデビュー・アルバムに収録されたマクドナルドとシンフィールドの共作「風に語りて」をダイブルが歌った初期バージョンが収録された[11]。 2001年、ピーター・ジャイルズがホーム・レコーディングの未発表音源の編集に携わった。これらの音源は同年、LP”Metaphormosis”、CD"The Brondesbury Tapes"として発表された[12][13][14]。 メンバー
ディスコグラフィアルバム
シングル
コンピレーション・アルバム
脚注注釈
出典
引用文献
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