落語家の亭号一覧落語家の亭号一覧(らくごかのていごういちらん)では、落語家の亭号を一覧に記す。亭号とは、落語家の芸名(高座名)のうち、苗字にあたる部分のこと。 入門した弟子は師匠の亭号をもらい、名の部分は自分個人のもの(師匠が命名する場合が多い)を名乗る。亭号を変えたり、昇進時に師匠と異なる亭号を名乗ったりすることもある。苗字ではないので、落語家に対して「桂さん」「立川さん」のように呼びかけたり表現したりすることはない[注釈 1]。 歴史江戸時代の烏亭焉馬(うてい えんば)が亭号を使った落語家の始まりだと考えられている。焉馬は歌舞伎役者の5代目市川團十郎とも親しかったことから團十郎をもじって談洲楼(だんしゅうろう)、さらに立川(たてかわ)など複数の名を名乗った(当時から團十郎は芸の格付けから人形浄瑠璃の紋下(櫓下)[1]を除けば東都の最高峰であった)。 他に古い歴史を持ち、現在でも多くの落語家が使用している亭号・屋号には三笑亭、三遊亭、古今亭、金原亭などがある。また、桂は古くから上方の名だが、3代目の桂文治が江戸に下り初代桂文楽を名乗ってから江戸落語界にも定着したと言われている。 亭号・屋号は変化することもある。林家はもともと林屋と書いたが、1890年前後に5代目の林家正蔵によって「家」が使われるようになった。同じ様な形で、屋号などの読み方は変化せずに字のみが変わった例として、翁家(翁屋)・都家(都屋)・春雨や(春雨家)・三笑亭(山花亭)・笑福亭(松富久亭)・朝寝坊(朝寝房)・昔昔亭(昔々亭)・桃多楼(桃太楼)・橘家(立花屋・橘屋)・三升家(三升屋・三舛家)・雀家(寿々目屋・雀屋)・月の家(月廼家・月之家・月ノ家)・五街道(五海道・五海堂・五開堂)などがある。一方上方にも林屋の一派が存在していたが、江戸(東京)の林屋との混合を避けるためにかなり早い時期に林家になっていた。同じく上方には明治10年代ぐらいまで立川の一派が存在していたがこれは香川登志緒の説によると「たちかわ」と読ませていたという。亭号の変化に関する面白いエピソードとしては、3代目三遊亭小圓朝が戦時中に講談師6代目一龍斎貞山の薦めにより、船遊亭志ん橋の名跡を「国家存亡の危機時に船遊びはふさわしくない、国威発揚の意味からも勇ましく」という事で、亭号の字を変えて「船勇亭」志ん橋と改名して名乗った例が挙げられる。戦争が終わるとすぐに元の小圓朝に戻っている。 他にも、名跡が受け継がれる際に亭号が全く違うものに変えられることもある。麗々亭柳橋の名跡を6代目が襲名する際に亭号が春風亭に変えられたほか、船遊亭が入船亭に、三升亭が三升家に変わった例などがある。 通常、落語家は一度与えられた亭号(ほとんどが師匠と同じもの)をずっと名乗り続けるのが通例であり、亭号を変えるのは、二つ目や真打に昇進する際に由緒ある名跡を襲名する時か、破門・師匠の死去などの理由より他門下に移籍する時などしかない。 そのような事情がなく亭号が変えられた例として、明石家さんまは、笑福亭松之助に弟子入りしたときには「笑福亭さんま」を名乗っていたが、入門1年後から「明石家」の亭号で活動している。当時松之助は一門の弟子の亭号を「笑福亭」から自身の本名由来の「明石家」に変更させていた(明石家つる松、明石家小禄など)こともあり、松之助はさんま以降の入門弟子にも「明石家」の亭号を与えている。ちなみに、松之助の長男である明石家のんきは、落語家として活動を続けている。また、2020年には「なごや雷門」と通称された名古屋拠点の落語家4人が、東京で司馬派が使用して以来、約120年使用されず、中日ドラゴンズのイメージにも通じる「登龍亭」の亭号に目を付け「雷門」から「登龍亭」に亭号を変更している。 あ行
か行
さ行
た行
な行・は行
ま行・や行
ら行・わ行
その他・不明
脚注出典参考文献
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