一龍斎貞山一龍斎 貞山(いちりゅうさい ていざん)は、講釈師の名跡。 初代本名や生年は不明[1]。浅草龍宝寺と早稲田宝泉寺の2ヶ所に墓所があり、没年を前者は安政2年9月2日(1855年10月12日)、後者は安政5年8月5日とする[1]。『武功年表』の記述から、後者の信憑性が高い[1]。 初代錦城斎典山の門下[要出典]。関根黙庵『講談今昔譚』では、隻眼だったために同じ隻眼の伊達政宗の法名の「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」に因んで貞山と号したと伝わる[1]。得意演目は「伊達評定」[要出典]。 2代目本名や生年は不明[2]。関根黙庵『講談今昔譚』では、本名は杉江某、御家人の出自だとされる。天保10年(1839年) - 明治7年(1874年)3月14日[2]。36歳で死去した[2]。 初代貞山の門下で、初代双龍斎貞鏡、初代真龍斎貞水を経て、2代目一龍斎貞山を襲名した[2]。矢ノ倉に住んだため、「矢ノ倉の貞山」と呼ばれた[2]。世話物を得意とした。1858年に「岩見重太郎実記」を上梓。 4代目本名:杉江勝太郎、安政元年(1854年) - 明治23年(1890年)5月19日[3]。享年37。 父は地方廻りの講釈師一龍斎貞昇[3]。3代目一龍斎貞山に入門し、初代一龍斎貞花から初代昇龍斎貞丈を経て、1885年、3代目一龍斎貞山が初代錦城斎一山と改名したのに伴い、4代目一龍斎貞山を襲名する[3]が、間もなく胸腔内動脈瘤で死去した[3]。 6代目
六代目 一龍斎 貞山(1876年11月26日 - 1945年3月10日[4])は、講談師。本名∶桝井 長四郎。 経歴1876年(明治9年)11月、東京府[4]銀座(現在の中央区)の袋物商「富田屋」に生まれる[4]。 11歳で四代目一龍斎貞山に入門し、三代目一龍斎貞花を名乗る[4]。師が没したため、預り弟子として五代目一龍斎貞山門下へ移る[4]。 初代邑井吉瓶、初代伊藤痴遊の後見で三代目一龍斎貞丈を襲名し21歳で真打昇進[4]。1907年(明治40年)、六代目一龍斎貞山を襲名[4]。 1945年(昭和20年)3月10日、アメリカ軍による東京大空襲に被災し隅田川で死去[4]。 芸歴
人物三代目神田伯山、二代目大島伯鶴と共に売り出し、「釈界の三羽烏」と評された[4]。 その流れるような調子から「水道の蛇口」と評された上に、多様な演目を持ち、特に「義士伝」はお家芸であった[4]。 講釈師でありながら落語協会の頭取を務め、色物の寄席にも積極に出演した[4]。 7代目
七代目 一龍斎 貞山(1907年6月2日 - 1966年12月7日[5])は、講談師。本名∶佐藤 貞之助。東京府生まれ[5]。 経歴1907年(明治40年)6月、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる[5]。東京市猿江尋常小学校卒業。 1922年(大正11年)3月、六代目一龍斎貞山に入門し、本名から一龍斎貞之助を名乗る[5]。1931年(昭和6年)3月、六代目一龍斎貞鏡と改名し、真打昇進[5]。1947年(昭和22年)3月、七代目一龍斎貞山を襲名[5]。 1966年(昭和41年)12月7日、脳出血により死去[5]。 芸歴人物道具仕掛けの怪談物を得意とし、「お化けの貞山」の異名を取った[5]。一方、「義士伝」や「荒木又右衛門」といった古典もよく読んだ[5]。また講談組合の副頭取を長く務めた[5]。 落語家の五代目古今亭志ん生の芸を、その無名時代から高く評価し、何かと援助した事でも知られる[要出典]。 出演映画
弟子廃業
8代目
八代目 一龍斎 貞山(1947年9月3日 - 2021年5月26日[4])は、講談師。本名∶小村井 貞夫。 経歴1947年、七代目一龍斎貞山の長男として東京都新宿区牛込に生まれる[6]。1966年に父が没したため、四代目神田伯治の養子になる[6]。立正大学文学部国文科卒業。 1970年4月1日、四代目神田伯治門下に入り、上野本牧亭で初高座[6]。1971年、二ツ目昇進[6]。1977年、真打に昇進し八代目一龍斎貞山を襲名[6]。 1989年、文化庁芸術祭賞受賞[6]。2001年、講談協会理事[6]に就任。 2021年5月26日、心不全のため、東京都内の病院で死去[7][8]。73歳没。 芸歴受賞歴弟子関連項目脚注
外部リンク
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