司馬龍生
司馬 龍生(しば りゅうしょう)は落語の司馬派の名跡。司馬派の祖。 初代三遊亭圓生門下の初代司馬龍生を祖とする司馬派は、江戸時代において隆盛を極めたが、明治時代以降は衰え、龍生の名跡を襲名する者は50年以上現れていない。現在、司馬派の名跡を継ぐ落語家は土橋亭里う馬がいるのみ。なお、この名跡は三遊亭司が預かっている。 4代目は2人確認されているが同時に存在したわけではない。 因みに司馬派の名跡は、上記の土橋亭里う馬以外に司馬龍蝶、司馬龍斎、司馬斎次郎、登龍亭鱗蝶、司馬龍我、司馬龍女などがある。なお、2020年に名古屋拠点の落語家4名登龍亭獅篭、登龍亭幸福らが襲名した登龍亭は司馬派が使用していた亭号に由来する。 初代
司馬 龍生(生没年不詳) - 初代三遊亭圓生の門人で三遊亭圓盛といい、さらに司馬雲亭から司馬龍生となった。経歴などはあまりよく伝わっていない。 弟が三笑亭世楽といった。弟子に初代司馬龍蝶「目玉の龍蝶」、初代桃月庵雛太郎、初代司馬龍斎、2代目龍生(後の初代土橋亭里う馬)らがいた。 3代目
司馬 龍生(生年未詳 - 1826年6月18日) - 初代船遊亭扇橋の門人で入船(または萬笑亭)扇幸から天保期には初代土橋亭里う馬の門下で土橋亭扇好となり天保半ば?に3代目龍生を継いだ。 妻は女髪結いのきくといい龍生没後、弟子の2代目柳亭左楽の妻になった。 没後日暮里に「米の飯食うや乞食も花のもと」と刻まれた碑を残したという。 弟子に4代目龍生、龍我(後の2代目柳亭左楽)、龍女(後の2代目瀧川鯉橋「ズイコ」)らがいた。 4代目4代目は2人存在している。
4代目? 司馬 龍生(生没年不詳) - 後の3代目土橋亭里う馬。
4代目 司馬 龍生(生没年不詳) - 2代目柳亭佐楽(左楽とは別人)の門下で佐喜次郎、天保の末に2代目司馬龍生(後の初代土橋亭里う馬)の門下で、龍女、嘉永時代には3代目扇好となり嘉永の末に4代目龍生を継いだ。1852年5月に剃髪して正覚坊を名乗る。さらに花枝坊佐喜丸を名乗った。 5代目
( - 1879年7月) 俗称を豊次郎(豊吉とも)いい、外神田旅籠町の生まれで鮨屋を業とした。1855年3月21日に三遊亭圓朝(圓朝にとって一番弟子)の門に入り橘家圓三から文久元年ころに栄朝となり、明治初年?に2代目橘家圓太郎を襲名した。 このころからあだ名を「鮨屋(すし屋)の圓太郎」といった。1878年ころに5代目司馬龍生を継いだ。1879年7月に越後で当時流行していたコレラで静養中に火事で死去した。 6代目
6代目 司馬 龍生(1845年2月 - 明治20年代没?)、本名:永島 勝之助。
8代目
9代目
9代目 司馬 龍生(1883年4月15日 - 1946年3月26日) - 本名:浦島四郎。
出典
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