宗族制 (華族)宗族制(そうぞくせい)は、明治時代初期の日本において設けられた、華族を家系ごとの一族である宗族に分類し、その統制をはかるための制度[1]。 歴史明治2年(1869年)6月、版籍奉還によって公家と大名は新たな「華族」という族称を与えられた。明治4年(1871年)10月には明治天皇から華族は全国民のうち貴重の地位にあるものだから、国民に先駆けて一致勤勉の努力をするようにという勅諭が下された[2]。 これを受けて華族の団体である華族会館が設置されたものの、大規模な領域の領主として経済力もあった旧大名と、格式が高いが経済力に乏しい旧公家とは立場も大いに異なっていた。そのため華族会館の運営方針を巡って争いが絶えず[2]、宮内省は明治9年(1876年)3月、華族を華族掛の統制下に置くこととした[1]。5月には右大臣岩倉具視の発案で、華族会館に部長局が設置された。これは華族を六つの部に分けてそれぞれに部長を置き、全体を監督する督部長と副督部長の管轄下に置くというものであった[1]。督部長には岩倉が就き、これらの改革は最終段階を迎えていた秩禄処分によって、華族が没落することを防ぐ目的があった[1]。この際各部の統制のために導入されたのが宗族制である。 これは全華族を先祖を同じくするグループ、宗族に分け、宗族ごとに同じ先祖を祀ることによってその結合を図るというものであった。明治9年8月26日、宮内卿徳大寺実則より、宗族をまとめた『華族類別録』の仮編集版が下付された。これは後に編集を加えられ、明治11年(1878年)10月に公刊された。これによって華族は、神武天皇以降の天皇を先祖とする皇別(第一類から三十六類)、神武天皇以前の諸神を先祖とする神別(第三十七類から七十類)、渡来人を先祖とする外別(第七十一類から七十六類)に大別された[1]。これは『新撰姓氏録』の皇別・神別・諸蕃の区分に従ったものである[1]。ただし、琉球国王であった尚氏(尚泰)、木下家定の子孫であった豊臣姓木下氏(日出藩木下家と足守藩木下家)はこの三別とは別にされている[3]。 宗族においては公家と武家の区別は取られなかった。宗族制の開始とともに、各宗族はお互いを扶助することなどを定めた、宗族の憲法ともいえる宗族条約を締結した[4]。また各宗族内では非常時のために各家が出資して基金を設立することもあった[5]。明治15年(1882年)には太宰府天満宮の宮司西高辻家が華族に列されているが、これは同じ菅原氏の宗族である華族が署名を集めて願い出たためであるという[6]。 部長局は明治15年(1882年)11月に廃止され、華族の統制は宮内省華族局が行うこととなった。明治17年(1884年)の華族令公布後は勲功による新華族が増加したことと、宮内省の統制強化により、宗族制の意味合いは次第に薄れていった[7]。同年12月、宗族制は廃止されたが、その後も先祖祭祀や、基金運用などの面で一部の宗族の結合は存続している[8]。 宗族氏族の表記は華族類別録に従う。 皇別皇別氏族は神武天皇以降の天皇を先祖とする。
神別神別氏族は、神武天皇以前の諸神を先祖とする。
外別外別氏族は渡来人を先祖とする。
その他
脚注注釈出典
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