久世氏
久世氏(くぜし)は、武家・華族だった日本の氏族である。戦国時代に松平氏(徳川氏)に仕え、江戸時代には譜代大名の下総国関宿藩主家、維新後には華族の子爵家となった。 歴史寛政系譜ではその出自について村上源氏久我流と自称している[2][1]。三河国額田郡に住していた小野十郎高広の子高長が、母方の姓を称し久世と名乗るようになったのに始まるという[1]。広長の代に松平清康・広忠に仕え、その孫広宣は徳川家康に仕えて戦功をあげた[2]。 広宣の三男広之が徳川秀忠・家光に近侍して出世し[2][3]、慶安元年(1648年)には1万石に達して譜代大名となり、寛文9年(1669年)に下総国関宿藩5万石の藩主となり、若年寄、老中を歴職した[2][4]。 その息子の重之の代には関宿藩から庭瀬藩、丹波亀山藩、三河吉田藩と転封を繰り返させられるが、宝永2年(1705年)に関宿藩に復帰した[5]。 幕末の広周は老中首座として公武合体を進めて和宮降嫁に関与したが、文久2年(1862年)に失脚し、永蟄居にされた[6]。 その息子広文の代に江戸幕府滅亡と王政復古を迎えたが、明治元年(1868年)に徳川脱走兵が上野に結集した際に関宿藩士も関与したため、辞職が命ぜられた[7]。弟の広業が相続を許されたが、王師に抗した罪により5000石減封となり、4万3000石となった[5][8]。明治2年(1869年)の版籍奉還により関宿藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[9]。 明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると久世家も大名家として華族に列した[10][11]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 1]として広業が子爵に列せられた[8]。 3代子爵広武の代の昭和前期に久世子爵家の邸宅は東京市牛込区市谷加賀町にあった[3]。 歴代当主初代・久世広之2代・久世重之従四位下侍従・老中
3代・久世暉之4代・久世広明老中 5代・久世広誉従五位下大和守 6代・久世広運従五位下長門守
7代・久世広周従四位下侍従・老中 8代・久世広文従五位下隠岐守 9代・久世広業10代・久世広英子爵
11代・久世広武子爵
12代・久世康生
系譜系図
脚注
参考文献
関連項目 |