坂上氏
坂上氏(さかのうえうじ)は、「坂上」を氏の名とする氏族。略称は「坂氏(ばんし)」。姓はもと直、のちに連、忌寸、大忌寸、大宿禰。渡来系氏族である東漢氏の阿知使主を始祖とし、坂上直志拏を氏祖として坂上直姓を称した。 概要代表的な人物に征夷大将軍の坂上田村麻呂がおり[1]、田村麻呂の後には史書に見える中で陸奥守や陸奥介、鎮守府将軍や鎮守府副将軍など、陸奥国の高官が多く輩出されている[2]。『日本三代実録』[注 1]坂上瀧守の卒伝に「坂氏之先、世伝将種、瀧守幹略、不墜家風」とあり、坂上氏が歩射や騎射など武芸(弓馬)を家風とし、世に将種を伝えたことが明記されている。小野氏と並んで子孫は代々、武門を家業として朝廷に仕える[3][4][5]。 また清水寺別当、右兵衛督、大和守、明法博士、左衛門大尉、検非違使大尉等を世襲した。 出自→詳細は「東漢氏」を参照
『続日本紀』には坂上苅田麻呂が宝亀3年(772年)と延暦4年(785年)の2度にわたり、光仁天皇や桓武天皇に奉った上表文が伝わり、祖先の阿知使主(阿智王)が応神天皇の時代に17県の人夫を率いて百済から日本へと帰従し、大和国高市郡檜前村(現在の奈良県高市郡明日香村)を賜って居住したとしている。『日本書紀』では東漢直の祖阿知使主とその子都加使主が17県の党類を率いて来帰とあり、『古事記』にも倭漢直の祖、阿知直とあることから記紀が成立した8世紀初期には東漢氏の始祖が阿知使主であると認識されていた。しかし記紀では苅田麻呂の上表文にある後漢霊帝の後裔であることや、阿知使主が百済から日本へと帰従した事については触れられていない[6]。『古事記』では阿知吉師(あちきし)と書いて阿直岐と同一人になっている。漢氏は百済人系を含んだかもしれないが、加耶の一国安羅を故地とする集団で、渡来後は多数の技能,技術を持つ人々と漢部という部を配下に置いて、大和の飛鳥を中心に広く分布した。書、坂上、民などがその主な氏だが、8世紀になると倭漢という総称は使われず、居住地にちなんで檜前(檜隈)忌寸と呼ばれるようになり、出自も後漢の霊帝の子孫と称した。阿知使主は倭漢氏の発展につれて作られた渡来伝承,始祖伝承上の人物であり、子の都加も6世紀の東漢直掬の名を投影して作った名である関晃「倭漢氏の研究」(『史学雑誌』62巻9号)。『坂上氏系図』によれば坂上直姓の氏祖は阿知使主の孫で東漢氏の坂上直志拏である[7]。 東漢氏からの独立5世紀末までに阿智使主の孫の代で[注 2]分かれ、6世紀以降も分裂を繰り返して居住地の地名を氏名にしたり、職掌を氏名にして存在を主張していくようになる[8]。『日本書紀』には「東漢坂上直子麻呂」[注 3]や「倭漢坂上直」[注 4]の名がみえ、坂上氏も6~7世紀には東漢氏から分かれてはいたものの「東漢(倭漢)」を冠していることから、東漢氏の支配下から独立していたとまではみられていない。壬申の乱では大海人皇子方として坂上国麻呂、熊毛、老などの名がみられ、乱で活躍したことから天武天皇11年(682年)に東漢氏が連姓を賜ったことから坂上氏も坂上直から坂上連とし、同14年(685年)には東漢氏が忌寸姓を賜ったことから坂上忌寸としている[8]。 歴史飛鳥時代坂上志拏の子の一人である坂上駒子の子が坂上弓束で、坂上首名、老、大国。老、国麻呂が壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)方として活躍した。 奈良時代奈良時代初期に右衛士大尉へと昇った坂上大国は武官にあり、坂上氏で武人としての活動が確認できる最初の人物である。大国の子である坂上犬養は武人の資質を認められて聖武天皇の寵愛が篤く、父である大国を超える左衛士督に昇った。犬養の子坂上苅田麻呂は藤原仲麻呂の乱で仲麻呂の子訓儒麻呂を牡鹿嶋足と共に射殺し[注 5]、この功により苅田麻呂は即日正六位上から従四位下と5階級昇叙の上、大忌寸の姓を賜与され坂上大忌寸となる。また、宇佐八幡宮神託事件に際して道鏡の姦計を告げ、その排斥の功績により、正四位下・陸奥鎮守将軍に叙任されている。氷上川継の乱では連座して解官されるが、すぐに再び右衛士督に復職している。延暦4年(785年)2月に従三位に叙せられ公卿に列し、同年6月に一族は後漢の霊帝の子孫であるにもかかわらず卑姓を帯びていることを理由に改姓を上表し許され、一族の11姓16名が忌寸姓から宿禰姓へ改姓する(嫡流の坂上氏は坂上大宿禰)。苅田麻呂は参議にこそ昇れなかったが、武人を輩出する氏族としての坂上氏の地位を確立した。[9][10]。 平安時代以降田村麻呂以降の坂上氏の動向であるが、田村麻呂には坂上大野、坂上広野、坂上浄野、坂上正野、そして桓武天皇の后だった坂上春子らの多数の子がいたと伝わっているが、坂上氏宗家の家督を継いだのは摂津国住吉郡平野庄(大阪市平野区)の領主となった坂上大野だった。しかし大野は早世し、弟の坂上広野が平野庄と坂上氏の家督を継ぐ。その後広野も早死にしたため、その弟の坂上浄野が跡を継いだ。浄野の次の坂上当道は、田村麻呂以来の東北経営と父あるいは伯父の広野(当道は浄野の子とも広野の子ともされている)にはじまる平野庄の経営に携り、子の坂上好蔭は武人として東北で活躍するが、その子の坂上是則、孫の坂上望城は歌人として名をなし、その子孫は代々、京都の検非違使庁に出仕し明法博士や検非違使大尉を継承した。 広野の子(当道が広野の子なら当道の兄)の坂上峯雄は侍従として都にあったが、孫の坂上峯益も曾孫の坂上行松も東北経営と都での任に就いている。当道の後の平野庄の経営については、平野坂上氏の氏寺の『長寶寺記』によれば坂上行松が継いだとされる。 坂上行松(坂上行増)を祖とする平野坂上氏の宗家は代々、京都の公家との姻戚関係を維持し、明治時代に東京に移るまでは長寶寺の近くに構えた屋敷に住んでいた。この平野氏から末吉家をはじめとする平野七名家が分かれた、と各家は伝えている[11]。宗家の平野庄の坂上氏を支え、代々「民部」を称し、堺と並ぶ中世の自治都市の平野を担った。平野七名家は江戸時代は幕府の代官となり5万石を支配地とする。東末吉家(末吉勘兵衛家)、西末吉家(末吉孫左衛門家)に分かれた末吉氏の子孫は、今日も平野の地に留まっている。 坂上氏の一覧
田村麻呂流田村麻呂流のうち大野系、広野系、浄野系の三系統を坂上氏本家という[12]。 大野系坂上大野の子孫。 広野系坂上広野の子孫。
浄野系坂上浄野の子孫。
山本荘司家坂上氏
今出川家諸大夫山本家(町口家)
明法家坂上氏正野系田村麻呂の4男である正野から5世孫の坂上正任は、河内国から摂津国豊島郡池田に移住して領主となった[18]。正任を祖とする池田坂上氏は、南北朝時代に同族の生地氏とともに南朝方にくみしたため没落した[18]。 広雄系坂上広雄の子孫。
系統不詳の坂上氏
系譜
劉仁━劉太公(太上皇)(別名:劉煓)━劉邦(高祖)━劉恒(文帝)━劉啓(景帝)━劉発(長沙王)━劉買(春陵節侯)━劉外(鬱林太守)━劉回(鉅鹿都尉)━劉欽(南頓県令)━劉秀(光武帝)━劉荘(明帝)━劉炟(章帝 (漢))━劉開(河間孝王、穆皇)━劉淑(元皇)━劉萇(仁皇)━劉宏(霊帝)━延王━石秋王━阿知使主(阿知王)━都加使主(高貴王)━坂上志拏直━駒子(東漢駒)━弓束(※弓束以降の系譜は下記に記載⬇) (弓束)━首名━老━大国━犬養━苅田麻呂━田村麻呂 田村麻呂┳長男大野━氏高━樹並 ┣次男広野┳峯雄━峯益━行松━高時 ┃ ┗当道━広道━國当━恒蔭━範親━定成━範明━明兼 ┗三男浄野━当道━好蔭━是則━望城━厚範━範親━定成━範政━明兼 末裔とされる氏族その他脚注注釈出典
参考文献
関連項目
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