物部氏
物部氏(もののべうじ)は、日本の氏族のひとつ。姓は連、後に朝臣。本項では饒速日命を遠祖とする物部氏について取り扱う。 特徴と歴史大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命が祖先と伝わる天神系の神別氏族。穂積氏や采女氏とは同族の関係にある。饒速日命は登美夜毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。 神武朝より大王家に仕えた氏族で、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。既に雄略朝の頃には大連を輩出し、各地に国造を残すなど、有力な氏として活躍していたとされる。物部氏の職掌について、本位田菊士は
を挙げている[9]。そして、大伴氏とともに古代軍事氏族の雄といいながらも、攻伐への参加が乏しいとして、その軍事的性格に疑問を呈する意見も存在する[10]。また、盟神探湯の執行者ともなったとする説もある[11]。 また、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」の被葬者は物部氏一族との関連が指摘されている。 物部氏は528年(継体天皇22年)に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。 物部尾輿以降宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った(仏教公伝)[12]。 稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありながら、これを許可したが、このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。 『日本書紀』巻第二十によると、のちに蘇我氏が複数人のマヘツキミを輩出したのと同じように、物部氏も複数人のマヘツキミ(物部守屋と物部贄子)を輩出していたと見られる[13]。 なお、以前までは、1935年に八尾市渋川町にある渋川天神社操車場を工事した際に、この場所から仏教施設に用いられた塔の基礎や多数の忍冬唐草紋の瓦が出土していること、この遺構は物部氏の居住跡である渋川廃寺址とされることなどから、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方も存在した。しかし、山本昭は、廃寺跡から出土した瓦は推古11年(603年)頃のものであり、また当地は四天王寺領となっている土地が多いため、守屋の田や奴の一部が渋川寺建立にあてられたと反論した。そして、当地は上宮家が影響力をもつ法隆寺と四天王寺を結ぶ道の中間にあるために寺が建てられたのであって、『太子伝玉林抄』の内容(推古天皇が御願し聖徳太子建立した)とするのは史実を反映していると主張した[14][15]。また、平林章仁や小笠原好彦も渋川廃寺と物部氏の関係を否定している[16][17]。 そもそも廃仏派であったのは物部守屋の一族であり、その他同族については廃仏派であったとの記録はない。また、物部氏は『先代旧事本紀』や『元興寺縁起』には排仏運動を行った様子が記されていない上に、物部氏は積極的に百済と交流をしており、仏像を燃やし海に流したのは「罪を祓う祭祀氏族」として祓戸の神のように「仏像=神」の罪を祓い元いた場所へ送り返すためであったとする説が存在する。 こうした物部氏(守屋宗家)の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御した(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋の館に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降守屋一派は没落する。ただし、推古天皇期には物部依網抱が大夫として活躍していることから、物部氏自体は没落していなかったと考えられる。また、後に石上氏が朝廷内で権力を再獲得し、全国の物部氏系の国造は何事もなく存続した。 天武朝684年、天武天皇による八色の姓の改革の時に、連の姓(かばね)から朝臣姓へ改めるものがあった。 石上氏
686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。大和国山辺郡石上郷付近を本拠にしていた集団と見られている。 石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。 石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。 系譜
枝族・末裔物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。長門守護の厚東氏、物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族が非常に多いことが特徴である。 江戸幕府の幕臣・荻生徂徠は子孫といわれる。 東国の物部氏石上氏ら中央の物部氏族とは別に、古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。『扶桑略記』、『陸奥話記』などには陸奥大目として物部長頼という人物が記載されている。六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥侯氏が物部斯波連を賜ったという記録が見え、金井沢碑や貫前神社の社家として物部君の一族が見える。 匝瑳物部氏下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連を『続日本後紀』は、布都久留の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出し征圧し、その後裔の氏族とする[注釈 2]。また平安中期に作られた和名類聚抄には下総国千葉郡物部郷〈四街道市物井〉の記述があり[18]、これらについては常陸国信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と匝瑳物部氏の関連も指摘されている。 尾張物部氏古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。 石見物部氏石見国の一の宮「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置地説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。金子家は、戦前は社家華族として男爵に列している。ただし石見国造は本来紀国造の支流である。 備前物部氏岡山県には備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。縁起によると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した「十握劒」(あるいは「韓鋤(からさひ)の剣)を山上の磐座に納めたのが始まりといわれる。江戸期には岡山藩の池田家から尊崇を受け「物部」姓への復姓を許されており、今の宮司も物部氏をついでいる。大和の石上神宮の本社ともいわれているが、神宮側は公認していない。 複姓の物部氏物部氏には、「物部+地名」や「物部+職業」といった複姓を持つ一族がいた[19]。ただし、これら複姓の物部氏が全て物部連と同族であったかは不明である。
国造先代旧事本紀巻十「国造本紀」には、以下の物部氏族国造があったという。上述の石見国造のように、古代史料には見えないが国造を私称するものも存在する。 天物部天物部は、饒速日命が天下った際に随伴した集団あるいは神である。『先代旧事本紀』「天神本紀」に記されている。
また、大分県竹田市の籾山八幡神社には直入物部神が祀られている。 史料脚注注釈出典
参考文献
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