藤原高房
藤原 高房(ふじわら の たかふさ)は、平安時代初期の貴族。藤原北家魚名流、参議・藤原藤嗣の三男。官位は正五位下・越前守。 経歴弘仁13年(822年)右京少進、天長3年(826年)式部大丞。天長4年(827年)従五位下に叙爵して、美濃介に任ぜられて現地に下向。任地では何事も他人任せにせず、硬軟織り交ぜた対応で統治を行った。また、陰謀や悪事をことごとく暴き、国内に盗賊がいなくなってしまったという[1]。 仁明朝でも備後・肥後・越前等の国守に任ぜられて、地方官として治績を上げるが[1]、昇進はわずかに承和8年(841年)に14年ぶりに叙せられた従五位上に留まった。 嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴って正五位下に昇叙され、嘉祥4年(851年)次侍従に任ぜられるが、背中にできた悪性の腫瘍により仁寿2年(852年)2月25日卒去。享年58。最終官位は越前守正五位下。 人物身長が6尺(約180cm)という長身で、人並み外れた膂力の持ち主であった。また、意気が盛んで、細かいことには拘らない性格であったという[1]。 逸話美濃介に任ぜられ現地に下向した際の治績として、以下の話が伝わっている[1]。
官歴注記のないものは『六国史』による。
系譜『尊卑分脈』による。 脚注参考文献
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