米津氏(よねきづし)は、武家・華族だった日本の氏族。江戸時代の譜代大名家の一つで明治維新後には華族の子爵家に列した。
出自
『寛永諸家系図伝』では先祖不詳とされ、米津勝政以降の系譜が記されている。
『藩翰譜』では、藤原道隆の後裔である信濃守親康の子・米津新大夫親勝の7代孫・刑部少輔信勝が左馬助勝政の祖先とされる。
『寛政重修諸家譜』では、三河郡司米津太郎・源時済の11代孫・左馬介義道が尾張国住人の古渡和泉守藤原正忠の婿となり、氏を藤原に改め正重と称し、その嫡子・右馬助正種が三河国に移り米津勝政の父となったとされる。
概要
戦国時代には米津勝信・常春・政信が松平氏に仕え活躍した。政信は徳川家康に仕え、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いで討死した[2]。
江戸時代に入り、常春の系統は子の代で断絶したが、政信の系統が残った。初代田政は慶長5年(1600年)上杉景勝攻撃などで功績をあげ、武蔵国などで知行5千石を与えられた[3]。寛文6年(1666年)、2代田盛が大坂定番を命ぜられると共に、1万石を加増されて旗本から1万5000石の大名に列し[4]、武蔵国久喜藩1万2千石(後に分知で1万1千石)、出羽国長瀞藩1万1千石の領地を治めた(版籍奉還後に大網藩・龍ヶ崎藩に移る)。11代政敏は明治4年(1871年)廃藩置県後、西南戦争で活躍して功績をあげ、明治17年(1884年)子爵を授けられ、政敏・政賢と続いたが、次代の米津政福に男子がなかったため家系は断絶している[5]。
米津の読み
「米津」は「よねきづ」「よねきつ」「よねつ」などと読まれる[6]。
墓所
知行地の一つであった旧前沢村(現在は東京都東久留米市幸町)の米津寺(べいしんじ)にある米津家大名墓所は、東京都多摩地区唯一の大名墓所として東京都指定史跡に指定されている[6]。江戸深川の本誓寺も藩主の墓所であったが、関東大震災や東京大空襲があったため現存しない。政敏からの明治以降の墓所は青山霊園立山墓地だが、前述の通り家系が断絶しているため2022年現在東京都より無縁撤去対象となっている。
歴代当主
- 米津正種
- 米津勝政
- 米津政信
- 米津田政
- 米津田盛
- 米津政武
- 米津政矩
- 米津政容
- 米津政崇
- 米津通政
- 米津政懿
- 米津政易
- 米津政明
- 米津政敏
- 米津政賢
- 米津政福
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
系譜参考
脚注
注釈
出典
- ^ 東久留米市郷土史研究会(1995)p.227
- ^ 国史大辞典編集委員会(1993)p.458
- ^ 東久留米市史編さん委員会(1979)p.469
- ^ 東久留米市郷土史研究会(1995)pp.228-229、国史大辞典編集委員会(1993)p.459
- ^ a b “久留米の文化財第22号”. 東久留米市. 2020年3月15日閲覧。
参考文献
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 東久留米市郷土史研究会『記念誌「ふるさと東久留米」』東久留米市郷土史研究会、1995
- 東久留米市史編さん委員会『東久留米市史』東久留米市史編さん委員会、1979
- 国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第十四巻』吉川弘文館、1995