千葉耕市
千葉 耕市(ちば こういち、1931年8月13日[1][2][9][3] - 2001年11月9日[10])は、日本の男性声優、俳優、音響監督。東京府東京市(現:東京都)出生[注釈 1]、岩手県胆沢郡前沢町(現:岩手県奥州市)出身[2]。また一部の作品においては千葉 耕一とクレジットされることもあった。 略歴東京府東京市(現:東京都)[注釈 1]で長男として生まれ、小学校卒業後、一家と共に岩手県胆沢郡前沢町(現:岩手県奥州市)に転居。戦時中も両親は岩手県出身だったこともあり、一家をあげて郷里に疎開。その頃、前沢での2年間の中学在学中に言葉は岩手弁となった[2]。 終戦後は東京に帰郷し、東京都立第七中学校に編入。しかし学力ではとてもついていけず、岩手弁だったこともあり、何か一言を話すと周囲がどっと笑っており、特に国語の時間が一番嫌いだった。励ますように標準語を教えて面倒を見てくれた友人がおり、演劇部が新設されることから「一緒にやろうじゃないか」と誘われ、演劇の道に足を踏み出した。第一回目の公演は『アルト・ハイデルベルクの恋』の主役のカール・ハインリッヒ役を演じていた。その時は男子校だったため、相手役は女子校の生徒に頼み、ラブシーンも演じ、学生の間で大いに話題となっていたという[2]。 東京都立墨田川高等学校時代は演劇部では主役から大道具作り、音楽部に所属してドラムも叩いたり、サッカー部のキャプテンまで務めており、一着のユニフォームがボロボロに破けて、つぎはぎを着ていたため、「雑巾キャプテン」というあだ名が付けられていた。クラブ活動に熱中していたが、ある日、校長から優しく尋ねられて、中学時代の先輩でNHK東京放送劇団に所属していた小山源喜を紹介して紹介状を手にしてNHKに訪ねていた。小山は当時、高校生だという理由で当初は相手にしてくれなかったが、粘りに粘って、カバン持ちとして師事し、NHKのスタジオに通っていた[2]。日本大学芸術学部卒業[2][8][注釈 2]。 その後、小山が出演していた当時人気の連続ドラマ『向う三軒両隣り』[注釈 3]で来宮良子が演じていた女子学生役が、なんとなく気にしている学生役の「今日は、いいお天気ですね!」のひと言を夢うつつのうちに演じていた。その時の放送謝礼金500円をくれた時には思わず震えていたという[2]。 キリン座[2][3]、ラジオ東京放送劇団2期(後のTBS放送劇団)[2][3][7][9]、土の会[9]、桐の会[11]、東京アクタープロ[12]を経て、最終所属は同人舎プロダクション[5][7][8]。 ラジオ東京放送劇団時代は日本大学芸術学部の4年生として在学中だったため、朝は大学へ、午後から深夜にかけてはスタジオへ、という忙しい日が続いていたという[2]。 1953年の夏、入社1年半たった時、初の大役の青春もののメインの役をつかみ、「いよいよこれで飛躍できる」と喜んだのもつかの間、紫斑病におかされてしまった。その時に病床で、演じるはずであった役を他の仲間が演じているのを聴きながら、くやし涙で枕を濡らしていた。半年の闘病生活を続けていたが病状は快方に向かわず、翌年の1月3日、病状が急変し、息が止まり、医師から死亡宣告をくだしていた。その後、霊安室(遺体安置室)に運ばれて、黄泉の国を1時間36分も生死の境を彷徨った挙げ句、息を吹き返したという[注釈 4]。この2日前、お正月だったが、千葉のために7人が血を提供してくれたという。全快後、両親は時間的に規則正しい生活のできる職業に就くことを強く希望していたが、前述のとおり、自分のために血液を提供し、生命を再び与えてくれたこの7人のためにも、自分のできる仕事で精一杯働き、多くの人物たちに生きることの尊さ、楽しさを伝えることで恩返しをすることを決意していたという[2]。 当初はアフレコ現場などで音響を担当していた技術者だったが、その個性的な声から声優業もこなすようになる[13]。ラジオドラマ創成期から活動し、独立してからは晩年に至るまで長く音響監督としても活動した。 人物声優としての代表作はクリストファー・リーの吹き替え[13]。独特の声質からホラー映画の吹き替えには多く出演し、『サスペリア』では出演だけでなくテレビCMのナレーションも担当した[13]。仲間のうちから「バケナレ」と呼ばれるようになったという[2]。 音響監督としての代表作はサンライズの『勇者シリーズ』など。演技指導はかなり厳しく、『勇者シリーズ』に出演した子安武人はラジオにて「勇者シリーズのラスボスは千葉さん」と語るほどであった[要出典]が、役者出身だけに的確なアドバイスなど、若手の声優たちとの親交においてもとても信頼ある人物であった。 没後に出た『ガオガイガーFINAL サウンドトラック2』のパッケージ中には密かに、英語で「この作品を千葉耕市氏に捧げる」と記されている。作品に対して命の火が消えようとも力を尽くした、恩師・先輩への製作者、役者らの敬意と感謝、追悼の念が込められている。 その他に、アニメ『イソップワールド』(1999年にテレビ東京系で放映)を担当中に体調を崩し、入退院を繰り替えしたが、同番組の打ち上げパーティーでは「僕は(病気で)声を失った時に、“俳優としての千葉耕市は死んだ(終わった)”と思った。でも“演出家としての千葉耕市はまだ生きている”と考えるようになった。だからこそ今日まで自分を奮い立たせることができたんだ。人間、希望を捨ててはいけないのだよ」(注:“声を失った”とは、舞台などで観客の耳に届くほどの声量が出せなくなったという意味)と語った。 父は製薬会社第一製薬のサラリーマン[2][14]。妻は音響制作プロデューサー、「クルーズ」社長の千田啓子。元前沢町町長の永井正二郎は母方の祖父[14]。 後任千葉の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
出演テレビアニメ
劇場アニメ
OVA
ゲーム
ドラマCD
吹き替え担当俳優
映画
ドラマ
海外人形劇
アニメ
テレビドラマ人形劇
ラジオドラマその他コンテンツ
音響監督1973年 1974年 1977年 1980年
1981年 1984年 1985年 1986年 1987年
1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年
1995年 1996年 1997年 1998年 1999年
2000年 日本語版演出その他
脚注注釈出典
外部リンク |
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