また多数の本を執筆・編集し、中にはコミック・ノベルの "Puckoon" (en) や、"Adolf Hitler: My Part in His Downfall (en) [注 2]に始まる、第二次世界大戦中の体験を綴った7巻ものの自伝などの作品がある。コミカルな詩作でも人気を博していた。彼の詩は大半が子供向けに書かれたもので、1959年の "Silly Verse for Kids"[注 3]などの作品がある。
1930年代の終わりから1940年代初めのほとんどを、ミリガンはアマチュアのジャズ・ヴォーカリスト、トランペッターとして過ごした。ミリガンはナチス・ドイツとの戦いのため徴兵されたが、ジャズは徴兵前・軍務中・復員後も変わらない趣味だった。また、兵士たちを楽しませるため、コメディ・スケッチの執筆・上演も続けていた。徴兵後海外戦線に送られる前、彼と仲間のハリー・エディントン(英: Harry Eddington、1919年 – 1993年)[9][注 6]は超現実的な物語をこしらえ、だじゃれや屁理屈を詰め込み、兵営での退屈を紛らわしていた。ある伝記作家は、初期のミリガンがダンス・バンドとして活動していたことについて、次のように述べている。
「彼はビング・クロスビーのように甘い声で歌うことができ、コンテストで優勝した。またドラムやギター、トランペットも吹き、それは全て独学で身に着けたものだった」 "He managed to croon like Bing Crosby and win a competition: he also played drums, guitar and trumpet, in which he was entirely self taught" — Pauline Scudamore、Scudamore (1985, pp. 52–53)
第二次世界大戦の間、ミリガンは第56重砲兵王立砲兵連隊(英語版)の通信兵(英語版)として働いた。所属はD砲兵中隊(後に19砲兵中隊)で、ガナー・ミリガン(英: Gunner Milligan)との名前で登録され、954024番が与えられた。このユニットには、第一次世界大戦時代のものとやや時代遅れなBL 9.2インチ榴弾砲(英語版)が配備されており、イングランド南岸のベクスヒル=オン=シーを本拠地としていた。ミリガン自身は、自著 "Adolf Hitler: My Part in His Downfall" 第2章で軍務時代について触れており、演習用の砲弾が無かったために、訓練中砲手たちは一斉に「バン」と叫ぶことで代用していたと述べている[11]。
入院生活の後、ミリガンは数々の後方梯隊[注 9]を回ってイタリア中を移動し続け、遂にはフルタイムのエンターテイナーになった。彼は兵士たちのパーティに出演し、ギターでジャズを弾いたり、コメディ・グループ『ビル・ホール・トリオ(英語版)』として活動した。軍から復員した後もミリガンはトリオとしてイタリアに残っていたが、その後すぐに英国に帰国することになった。彼は"Central Pool of Artists" (en) (自身で「爆弾が嬉しい新兵」[注 10]で構成されていると表現していたグループ)と活動していたが、その内彼らの行う劇本編のパロディを書くようになり、このパロディには後の『ザ・グーン・ショー』(元々のタイトルは "Crazy People")の鍵となる要素が既に数多く含まれていた[要出典]。
これに後れを取る形で、ミリガン、ピーター・セラーズ、ハリー・シーカム(英語版)、マイケル・ベンティン(英語版)は、比較的急進的なコメディ番組『ザ・グーン・ショー』のチームに加わった。番組の第1シーズンの間、BBCは番組名を "Crazy People"(略称)、もしくは "The Junior Crazy Gang featuring those Crazy People, the Goons!"(正式名称)としていたが、これは当時人気だった劇場コメディアングループ『ザ・クレイジー・ギャング(英語版)』と結びつけて、BBCの高官に番組を受け入れてもらおうという画策だったという[13]。
シリーズの第1話は1951年5月28日にBBCホーム・サービス(英語版)で放送された[14]。番組初期ではミリガンはあまり演者を務めなかったが、結局は『グーン・ショー』ほぼ全話の主演者となり、エクルズ (Eccles) やミニー・バニスター (Minnie Bannister) 、ジム・スプリグス、極悪なモリアーティ伯爵 (Count Jim Moriarty) など幅広い役を演じている[15]。彼は脚本のほとんどで主筆者を務めていたが、一方でラリー・スティーヴンス(英語版)やエリック・サイクス(英語版)など、様々な人物と脚本の共筆も行った。番組初期の脚本は、ほとんどがスティーヴンスと共作しジミー・グラフトン(英語版)が編集したものだったが、スティーヴンスとの協力関係は第3シリーズ後に破綻している。ミリガンは第4シリーズの脚本のほとんどを執筆したが、第5シリーズ[注 11]から第6シリーズの大部分でエリック・サイクスと共作し、この関係は "Associated London Scripts" (en) でのコラボレーションに繋がっている[16]。ミリガンとスティーヴンスは第6シリーズ中に再度コンビを組んだが、第8シリーズ終了に先立ってスティーヴンスが健康問題から退き、ミリガンは短期間ジョン・アントロバス(英語版)と共作した。ミリガンとスティーヴンスの協力関係は、スティーヴンスが1959年1月に脳出血で死亡したことで終わりを告げ、その後ミリガンはスティーヴンスの貢献にほとんど触れず、それをけなすようになった[17]。
ミリガンの1950年代から1960年代の生活でほとんど知られていないのは、脚本家代理業者 "Associated London Scripts" (ALS) (en) への参加である。ミリガンはこの時期に最初の結婚をして所帯を持ったが、この結婚は伝えられるところによると彼を執筆から大きく引き離すことになった。そのためミリガンはサイクスからの「小さなオフィスを分け合わないか」との誘いを受け、これが共同代理店の設立へと繋がった。なおテレビプロデューサーのベリル・ヴァーチューはこの時期にALSに参加し、エージェント業などを務めていた[22]。
テレビでの活躍
ミリガンはテレビの世界へと進出し、インタビュー番組への多数のゲスト出演に加え、1950年代から2000年代にかけて、作家兼俳優としてバラエティやコメディ・シリーズを制作した。1956年に制作され、ピーター・セラーズが主演した "The Idiot Weekly, Price 2d" (en) は、『グーン・ショー』のユーモアをテレビに持ち込もうとした最初の作品だった。この作品に引き続いて、1956年の間に "A Show Called Fred" (en) 、"Son of Fred" (en) といった続編が作られたが、この2作を監督したリチャード・レスターは、後にビートルズ映画も手掛けている。1958年のオーストラリア訪問中には、"The Gladys Half-Hour" と銘打たれた類似のスペシャル番組がオーストラリア放送協会 (ABC) で放映され、レイ・バレット(英語版)、ジョン・ブルーサル(英語版)など地元俳優が登場した。この2人は後のミリガンのプロジェクトにもいくつか出演している。1961年には、エリック・サイクスとハティー・ジェイクス(英語版)が主演した人気シットコム "Sykes and a..." (en) の2エピソードを共筆し、更に "Spike Milligan Offers A Series of Unrelated Incidents at Market Value" と銘打った1回限りの番組を放送している。
15分のシリーズ "The Telegoons" (en) (1963年)は、グーンズをテレビへ持ち込もうとした次の試みで、ここでは人気キャラクターがパペットで演じられた。当初の意図は、1950年代の『グーン・ショー』のオリジナル録音を「映像化すること」だったが、これは難しいことが判明した。また矢継ぎ早の対話のために、オリジナル録音を用いるという計画はBBCに拒否されて頓挫した。代わりにモーリス・ウィルトシャー(英: Maurice Wiltshire)による、15分のオリジナル脚本の翻案が使われることになり、ミリガン・セラーズ・シーカムは声の出演をするために再結集した。当時のプレス・レポートによると、彼らはBBCの15分番組で過去最高の報酬を得ていたという[23]。1963年と1964年には2シリーズが制作され、シリーズ全体がBBCアーカイブに保存されていると報告されている[要出典](映像はビデオではなく、35ミリフィルムで撮影されたと考えられている)。
テレビ界での次の大きな挑戦は、1968年のスケッチ・コメディシリーズ "The World of Beachcomber" (en) だった。この作品はカラーで撮影されBBC Twoで放送されたが、全19エピソードは既に紛失した (Wiping) と考えられている。同じ年には、テムズ・テレビジョンでの『グーン・ショー』テレビ再上演のため、グーンズの3名が再結集している。この番組には、既に死去していた『グーン・ショー』の司会でアナウンサー、ウォレス・グリーンズレイド(英語版)の代わりにジョン・クリーズが参加したが、パイロット版の評判は芳しくなく、それ以上番組制作は行われなかった。
1969年初めには、ミリガンはジョニー・スパイト(英語版)制作・脚本、更にミリガンの旧友で執筆仲間・エリック・サイクス主演の不運なシットコム "Curry and Chips" に出演した。この番組は、スパイトの初期の作品で大成功した "Till Death Us Do Part" (en) [注 12]と同様に、英国のレイシスト(人種差別主義者)を揶揄するもので、黒塗りにしたミリガンは、パキスタン人とアイルランド人のハーフで工場員のケヴィン・オグレディ(英: Kevin O'Grady)を演じた。このシリーズでは、レイシストの使うような罵倒句や「汚い言葉」が頻繁に使われていたため、番組に対して多数の批判が寄せられた[注 13]。このため6話分を放送した段階で、独立放送協会(英語版)からの命令で放送が中止された[24]。ミリガンは別の不運な番組 "The Melting Pot" (en) にも出演している(第1話のみが放送され、予定されていた残り5話分はお蔵入りとなった作品)[25]。
ジョン・ゴールドシュミット(英語版)監督の映画 "The Other Spike" では、ミリガンの神経衰弱がドラマ化され、グラナダ・テレビジョン(英語版)で放送された[26]。この作品のためミリガンはシナリオを執筆し、また自身の役を演じた。1969年終わりには、BBCから "Q5" の脚本と主演を委任された。この作品は革新的な『Q...』シリーズの初作で、数ヶ月後に初放送があった『空飛ぶモンティ・パイソン』の重要な先駆作品として認められている[注 14]。数年飛んで1975年には、続編シリーズの "Q6" が放送された。また "Q7" は1977年、"Q8" は1978年、"Q9" は1980年、"There's a Lot of It About"[注 15]は1982年に放送されている。ミリガンは後に、BBCのシリーズに対する冷たい態度に不平を漏らし、「もし機会が与えられるならもっと番組を作ろう[どうせ叶わないだろうが]」と述べた。『Q...』シリーズ初期のエピソードはかなりの分量が消失しており、テープの使い回しなどで廃棄された (wiping) と考えられている[要出典]。1979年には『マペット・ショー』にゲスト出演した[要出典]。
1995年から1998年にかけて、ミリガンはITVの大成功した子供向けアニメシリーズ "Wolves, Witches and Giants" の吹替を担当した。この作品は、『Q...』シリーズに出演し、ミリガンとラジオ番組で何回か共演していたエド・ウェルチ(英語版)が脚本を書き、サイモン & サラ・ボア(英: Simon & Sara Bor)によってプロデュース・監督された[29]。シリーズは英国・アメリカ合衆国を含め、100以上の地域で放送されている[要出典]。
詩やその他の著作
ミリガンはナンセンス文学に含まれるような詩も書いた。コメディアンのスティーヴン・フライは彼の詩について、「全く不朽のものだ — リアの伝説を前にしても大いに」("absolutely immortal—greatly in the tradition of Lear.")と表現している[30][注 16]。彼の詩の1つ、"On the Ning Nang Nong" (en) は、1998年に行われた全国投票で、ルイス・キャロルやエドワード・リアなどのナンセンス詩人を抑え、英国第1位のコミック・ポエムに選ばれている[31]。このナンセンス詩(英語版)には曲が付けられ、ABCの子供向け番組 "Play School" (en) で毎週放送されたことで、オーストラリアでの大ヒットを収めた。ミリガンは1969年に出された自身のアルバム "No One's Gonna Change Our World" (en) にこの曲を収め、その収益を世界自然保護基金 (WWF) の寄付金とした。2007年12月には、Ofsted(英語版)の調べで、この詩が英国のプライマリー・スクールで教えられた詩トップ10の頂点に立ったと報じられた[32]。
鬱状態に陥った後シリアスな詩を書くようになったミリガンは、他にも小説 "Puckoon" や戦争回想記のシリーズを書いた。戦争回想記としては、1971年の "Adolf Hitler: My Part in His Downfall" (en) や1974年の ""Rommel?" "Gunner Who?": A Confrontation in the Desert" (en) 、1976年の "Monty: His Part in My Victory" (en) 、1978年の "Mussolini: His Part in My Downfall" (en) などがある。ミリガンの回想記7巻は、1939年から1950年までをカバーしている(内容は自身の召集、軍務、最初の神経衰弱、イタリアでの慰問興行、英国への帰国)[要出典]。
バーナード・マイルズ(英語版)は、マーメイド・シアター(英語版)で行われた『宝島』(英: Treasure Island)の上演で、ミリガンにベン・ガン(英: Ben Gunn)の役を与えた。この役はミリガンにとって初めてのストレート・アクト出演となった。マイルズはミリガンを評して次のように述べている。
「非常にずば抜けた才能を持つ男だ・・・1人だけ外に立っている先見性のある男で、自分が変わっているために同じ種と理解し合うことができない、ただそれだけのために日常の付き合いを廃している・・・」 "... a man of quite extraordinary talents ... a visionary who is out there alone, denied the usual contacts simply because he is so different he can't always communicate with his own species ...."[34]
[ミリガンの] 最高の演技はまさしくベン・ガンそのものだった・・・、ミリガンは毎夜主役を食っていた、準備には少なくとも1時間はかかっていた。彼が舞台に現れれば、必ず観客の中の子供たちから歓喜のどよめきが起こり、ミリガンは抜群に滑稽なリフを始めるように、すぐに遠くまで台詞を届けるのだった」 [Milligan's] "best performance must surely have been as Ben Gunn .., Milligan stole the show every night, in a makeup which took at least an hour to apply. His appearance on stage always brought a roar of delight from the kids in the audience and Spike had soon left the text far behind as he went off into a riff of sublime absurdity."[35]
「ミリガンのファンや一般の演劇世界は、彼がストレート・プレイの世界にやってくると信じることが難しかった・・・彼は自分の動機について聞かれても本気で答えなかった。物語の中では、オブローモフは人生をベッドの上で過ごそうと決める。スパイクは自分の性格と同一視することを決め、不信感を抱くレポーターたちに、自分にとって良い癒やしとなる休養だと考えている、と述べた。これは勿論、二枚舌だった。スパイクはオブローモフに大層興味をそそられ、イワン・ゴンチャロフの小説の訳本を読んでいた」 "Milligan's fans and the theatrical world in general found it hard to believe that he was to appear in a straight play ... He refused to be serious when questioned about his motives. In the story, Oblomov decides to spend his life in bed. Spike decided to identify with his character, and told disbelieving reporters that he thought it would be a nice comfortable rest for him. This was of course, prevarication. Spike was actually intrigued with Oblomov and had read a translation of Ivan Goncharov's novel." — Pauline Scudamore、[38]
「[役者は]誰も自分の役に全く納得していないように見え、観衆は、ミリガンのスリッパがうっかり舞台から最前列に滑り落ちてしまった時には笑い声混じりに野次を飛ばした。これはスパイクにとってストレート・プレイの終わりだった。観衆は道化師を求め、彼は道化師になった。彼は台詞を忘れてしまったり、彼らが気に入らない時には、ただ自分がよりふさわしいと感じているものになろうとした。あの夜、初夜の賑やかな賞賛は一つも無く、キャストのほとんどは帰宅して唖然としたようだった。次の夜には、ミリガンは熱心にアドリブを入れ始めた。公演のテクストはがらっと変わり始めた。役者たちは混乱し動揺したが、彼[ミリガン]について行った・・・信じられないほど、公演は仕上がっていった。状況は完全に変わった。全くひっくり返ったのだ。キューや台詞は、ミリガンが毎夜口頭で書き直すことで全く違う物になっていった。最後の週までには、『オブローモフ』は評価に打ち勝った。アンドレ・モレルは再来場し・・・そして公演後に「こいつは天才だ。天才に違いない—彼にはこの言葉しか無い。信じがたいよ—でも彼は天才だ!」と述べた。『オブローモフ』がハマースミスのリリック・シアターで記録を塗り替えた5週間の公演を終えた後、タイトルは『オブローモフの息子』[英: Son of Oblomov]に変えられて、公演はウエスト・エンドのコメディ・シアターに移った」[注 17] — Pauline Scudamore、[39]
「最初あれは生計のためだったんだ。それに自分はちょっと同僚たちについて行けなくてね、自分は・・・作家席に座ったままの状態だったんだ。それから実のところ自分は全く優れた道化役者だって気付いてね・・・『オブローモフ』で、本当に酷い原稿から抜け出した自分のやり方で道化を演じるのは、自分が証明しなきゃいけなかった唯一のチャンスだったんだ・・・自分はおどけてウエスト・エンドでの成功をものにしたし、ああ、その間ずっと演劇を変えていった。あれは即興の力作だったよ・・・全てが終わった時には飽き飽きしたね、これで全てだ」 "First it was a means of livelihood. And I had sort of lagged behind my confederates, that I ... remained in the writing seat. And I realise that basically I was quite a good clown ... and the one and only chance I ever had to prove that was in Oblomov when I clowned my way out of what was a very bad script ... I clowned it into a West End success and uh, we kept changing it all the time. It was a tour de force of improvisation ... all that ended it was I got fed up with it, that's all." — Spike Milligan、"All Our Yesterdays" (en) (ITV, 1988)
ケン・ラッセルの映画で
1959年、ケン・ラッセルはミリガンと、彼に関する35mmフィルムの短編映画 "Portrait of a Goon" を撮影した。映画の制作風景はポール・サットン(英: Paul Sutton)による2012年の公認伝記 "Becoming Ken Russell"[40]で詳述されている。1971年にミリガンは、ラッセルの映画『肉体の悪魔』で卑しい村の司祭を演じた。シーンはリリース時にカットされてしまい、フィルムも失われたと考えられているが、マリー・メルヴィン(英語版)と共に写るシーンの写真があり、これは同じくサットンが2014年に書いた本 "Six English Filmmakers"[41]に収められている。
1967年には、英国のテレビCMのスーパーマンに刺激を受けたキャラクター流行を風刺するため、ミリガンが「バット・グーンズ」(英: "Bat-Goons")として、BPのテレビCMに出演した[45]。当時の記者はこのテレビCMについて、「面白く効果的だ」(英: "funny and effective")と述べている[45]。1980年から1982年にかけては、イングリッシュ・ツアーリスト・ボード(英: English Tourist Board、現VisitEngland (en) )の広告に出演し、イングランドの様々な地方を訪れるスコットランド人役を演じた。
1970年代、作家のチャールズ・アレン(英語版)は、イギリス領インド帝国に住んでいた英国人の体験談を編纂し、"Plain Tales from the Raj"[注 22]とのタイトルで1975年に出版した。ミリガンはこの本に体験談を寄せた最も若い人物で、英国統治下にあったインドでの体験を語っている。この本の中で、ミリガンは帝国のパレードについて語っている。
「自分にとって1番わくわくさせられた音は、ドール(英語版)やサーマイ[注 23]を演奏する、パンジャーブ臨時連隊[注 24]の音だった — ビートは1つ、ダンダダダン、ダンダダダン、ダンダダダン!彼らはとても長いパンタロンを履いていて、ターバンで金色のドームを作り、カーキのシャツにバンドの付いたウェストコート、2回交差した弾薬帯、革のサンダルを身に着けていた。彼らはとても速く行進していたのを覚えている、英国連隊のかかとで土ぼこりが立ちのぼった。彼らは連隊で現れ、自分たちのライフル銃を空中に投げては、それを左手でつかまえる — ずっとこのダンダダダン、ダンダダダンに合わせて — それからドラムの音に合わせて、足を踏み下ろし一斉射撃する。彼らは左に、右に、左に、右に、「よくやった!」[注 25]「へい!」バン!ダンダダダン — あれは素晴らしかった!」 "The most exciting sound for me was the sound of the Irregular Punjabi Regiment playing the dhol and surmai - one beat was dum-da-da-dum, dum-da-da-dum, dum-da-da-dum! They wore these great long pantaloons, a gold dome to their turbans, khaki shirts with banded waistcoats, double-cross bandoliers, leather sandals, and they used to march very fast, I remember, bursting in through the dust on the heels of an English regiment. They used to come in with trailed arms and they'd throw their rifles up into the air, catch it with their left hand - always to this dum-da-da-dum, dum-da-da-dum - and then stamp their feet and fire one round, synchronising with the drums. They'd go left, right, left, right, shabash! Hai! Bang! Dum-da-da-dum - It was sensational!" — Spike Milligan、[49]
私生活
家族
ミリガンは最初の妻、ジューン・(マーチニー)・マーロウ(英: June (Marchinie) Marlow)と1952年に結婚した。2人の間には、ローラ、ショーン、シーレ (Laura, Seán and Síle) と3人の子供が生まれたが、1960年に離婚した。2番目の妻パトリシア・リッジウェイ、愛称パディ(英: Patricia 'Paddy' Ridgeway)との間には一人娘ジェーン・ミリガン(英: Jane Milligan、1966年 - )が生まれ、彼女は後に女優となった。ミリガンとパトリシアは1962年6月に結婚し、ベストマンはジョージ・マーティンが務めた[注 26]。この結婚は、パトリシアが1978年に乳癌で亡くなったことで終わりを告げた[50]。
1975年には、マーガレット・モーガン(英: Margaret Maughan)との情事の末、息子ジェームズ(英: James、1976年6月生まれ)を儲けている。もう1人の娘ロマニー(英: Romany)も同じ時期に生まれたのではないかとされているが、母親はカナダ人ジャーナリストロバータ・ワット(英: Roberta Watt)だった。
彼の最後の妻はシェラー・シンクレア(英: Shelagh Sinclair)で、1983年に結婚した後、ミリガンが2002年2月27日に亡くなるまで連れ添った。彼の子供4人は2005年に放送された番組 "I Told You I Was Ill: The Life and Legacy of Spike Milligan" でドキュメンタリー製作に協力しており、この作品のホームページも開設されている[51][注 27]。
「とても弱ってしまって、入院させられるのかと尋ねたり、昏睡状態(睡眠)に陥ってしまったことがあった。起きたまま立っていることができない。苦痛は相当なもので・・・何かが起きているんだけど、この命のきらめきが輝くのを止めてしまうんだ — 自分は夕飯の食卓へ向かって何も言わない、ただドードーのように座っている。いつも自分は注意の真ん中にいて、会話を続けようと努力している — そのため憂鬱にさせられる。別の人間がやっているようで、とても変だ。私が言う1番大事なことは「こんばんは」で、それから私は黙りこくる」 "I have got so low that I have asked to be hospitalised and for deep narcosis (sleep). I cannot stand being awake. The pain is too much ... Something has happened to me, this vital spark has stopped burning – I go to a dinner table now and I don't say a word, just sit there like a dodo. Normally I am the centre of attention, keep the conversation going – so that is depressing in itself. It's like another person taking over, very strange. The most important thing I say is 'good evening' and then I go quiet." — Spike Milligan、[55]
国籍
ミリガンは英国本土ではなく、イギリス領インド帝国で出生したため、彼の英国国籍については疑義が残されたままだった。ミリガンは6年軍務に当たった後、英国のパスポートを取得しようと考えた。しかしパスポート申請は、彼が英国への忠誠宣誓 (Oath of Allegiance (United Kingdom)) を拒否したとの理由で却下された。ミリガンがアイルランド系のルーツを持っていたことが助けになり、無国籍状態から抜け出すことになる。彼はアイルランド国籍を取得し、死ぬまでそのまま国籍を保持した[56]。
チャールズ3世とのユーモア
英国のチャールズ3世はミリガンのファンで、ミリガンが1994年のブリティッシュ・コメディ・アワード(英語版)の "The Lifetime Achievement Award" を獲得した際には、テレビの生放送を通じてお祝いのメッセージを読み上げた。ミリガンは、チャールズを a "little grovelling bastard" と呼んでこのメッセージを途中で中断した[3][注 28]。彼は後にチャールズへこうファックスを送っている。「ナイトの位に関しては問題外ってことになりますよね?」(英: "I suppose a knighthood is out of the question?")。実際、ミリガンが「サー」をつけて呼ばれる完全なナイトとなるのは不可能だったが、これは王子を侮辱したからではなく、ミリガンが正式にはイギリス国籍を保有していなかったからである[58]。実際のところミリガンとチャールズとはとても仲の良い友人で、ミリガンは1992年に大英帝国勲章のコマンダー(CBE、第3位)を授与されており、これはミリガンがアイルランド国籍保有者であるため名誉上のものだった[55]。また2000年には名誉上のナイト・コマンダー(KBE、第2位) を授与された[59]。
死
2008年に撮影された、聖トーマス教会(ウィンチェルシー)にあるミリガンの墓石。現在では最後の妻シェラーの生没年と墓碑銘が加えられている。エピタフにはアイルランド語で "Dúirt mé leat go raibh mé breoite" と刻まれている
晩年になっても、ミリガンのブラックユーモアは健在だった。グーンズのメンバー、ハリー・シーカム(英語版)が癌で死去した後、彼は「彼が自分より先に死んでくれて良かったよ、あいつに自分の葬式で歌ってはほしくなかったからね」(英: "I'm glad he died before me, because I didn't want him to sing at my funeral.")との言葉を残している。ミリガンの追悼会ではシーカムの歌の録音が流された。1990年には自分で自分の故人略伝を書き、その中では何度も「[彼は]グーン・ショーを書いて死んだ」(英: he "wrote the Goon Show and died")と繰り返している[60]。
ミリガンは2002年2月27日に、イースト・サセックス、ライの自宅で亡くなった。死因は腎不全で[54]、83歳没。3月8日に行われた葬儀で、亡骸が収められた棺はイースト・サセックスのウィンチェルシーにある聖トーマス教会まで運ばれ、アイルランド旗の上へ置かれた[61]。彼は以前、自分が死んだ際には墓石に "I told you I was ill."(意味:病気だって言っただろ)と刻んでほしいと冗談を言っていた[注 29]。ミリガンは聖トーマス教会の附属墓地に埋葬されたが、チチェスター教区はミリガンの望んだエピタフを拒否した[62]。妥協案として、エピタフにはアイルランド語訳の "Dúirt mé leat go raibh mé breoite" が選ばれ、更に英語で "Love, light, peace"(意味:愛、光、平和)と書き加えられた。また、同じくアイルランド語で、「シェラーに大きな愛を」との意味になる "Grá mór ort Shelagh" とのエピタフも書き込まれた。
2011年に出版された本 "Rye and Battle Observer" に収められた手紙では、ミリガンの墓石はウィンチェルシーの聖トーマス教会から移動され、妻シェラーの墓の脇に移されたと書かれている[63]。
ミリガンはバーネット区フィンチリー、ウッドサイド・パークのホールデン・ロード(英: The Holden Road)に数年間住んでいた。また、フィンチリー・ソサエティの創設者・強力な支援者でもあった。ウッドサイド・パークにあった元の家は取り壊されてしまったが、このフラットがあった場所にブルー・プラークが設置されている。
2005年に、コメディアンやその関係者によって行われた「コメディアンの中のコメディアン」を決める投票では、ミリガンはトップ50に選ばれた。また1999年8月にBBCが行った投票では、ミリガンは「この1,000年で1番面白い人物」(英: The "funniest person of the last 1,000 years")に選ばれている。
2006年6月9日には、リチャード・ワイズマンが、ミリガンは世界で一番笑えるジョークの作者だと認めたことが報じられた。この『世界で1番笑えるジョーク』とは、ラフラボ・プロジェクト(英: The Laughlab project)が選定したものである。ワイズマンは、ジョークの原型は『ザ・グーン・ショー』期にあると考えられ、このジョークには良いギャグになるための3要素である、「不安、優越感、驚きの要素」が全て含まれていると語った[65]。
エディー・イザードは、ミリガンを「型にはまらないコメディの育成者」(英: "The Godfather of Alternative Comedy")と表現した。彼の解放された精神からアイデアは現れ、もはや境界線なんて無い。彼は、『型にはまらない』とされている、新時代のコメディアンに影響を与えた」[注 32]と語っている。
ミリガンの両親は退職後、ミリガンの弟デズモンドを連れてオーストラリアへ移住した。ミリガンの母は、シドニーの北側、ニューサウスウェールズ州セントラル・コースト(英語版)にある浜辺の村、ウォイウォイ(英語版)で余生を過ごした。このためミリガンはオーストラリアを度々訪れるようになり、ボビー・リム(英語版)の "The Idiot Weekly" (en) など、オーストラリアのラジオ・テレビ番組へ多数出演することになった。またウォイウォイにある母の家を訪問している間に、映画化もされた "Puckoon" などいくつかの本を書き上げている。1960年代にウォイウォイを訪れたミリガンは、この町を「共同墓地の中で世界一大きい」町(英: The town "the largest above ground cemetery in the world")と表現している[69]。
ミリガンの母は、息子が英国市民権を持てなかったことへの抗議も込め、1985年にオーストラリア国籍を取得し、これによりミリガンがオーストラリア市民権を獲得したと考えられる、と報道された[70]。ウォイウォイからゴスフォードへ向かう吊り橋には、ミリガンにあやかって「スパイク・ミリガン橋」(英: The Spike Milligan Bridge)との名前が付けられたほか[71]、ウォイウォイ公共図書館(英: The Woy Woy Public Library)の会議室にも彼の名前が付けられている[72]。
Milligna (or Your Favourite Spike) (en) (1972年)- タイトルは "The Last Goon Show of All" (en) でのミリガンの自己紹介、"Spike Milligna, the well-known typing error"(意味:「スパイク・ミリグナ[注 33]、よくあるタイプミスです」)から取られたもの。
The Melting Pot - 1975年に、ミリガンとニール・シャンド(英語版)の共筆で作られたBBCのシットコム。ミリガンは共同主演も務めた。キャラクターは不法移民やアイルランド人地主、中国人コックニー、スコットランド-アラブ人など、人種のステレオタイプのようなものだった。ミリガン自身は「パキスタン人の不法移民」ヴァン・ゴッホ氏(英: Mr Van Gogh)に扮した[73]。パイロット版の試写後、シリーズは放送には侮辱的すぎると判断された。5話分が放送されずに残っている。いくつかのキャラクター・シチュエーションは、ミリガンの小説 "The Looney" で再利用されている。
Let's Go Crazy (en) (1951年)- グーンズの短編映画。ミリガンはエクルズ (Eccles) とウェイターの役を演じ、ピーター・セラーズやワラス・イートン(英語版)と共演した[75]。
Penny Points to Paradise (en) (1951年) - ドネリー役で出演し、後にグーンズに加わったアルフレッド・マークス(英: Alfred Marks)やビル・カー(英: Bill Kerr)と共演した[76]。
Down Among the Z Men (en) (1952年)- 全グーンズが出演した極秘エージェントもののコメディ・白黒映画で、ミリガンはエクルズを演じた。グーンズとしては、初期のメンバーだったマイケル・ベンティンと、オリジナル版で司会を務めたアナウンサーのアンドリュー・ティモシー(英語版)が出演している。
A Kid for Two Farthings (en) (1955年)- グレーの髭を生やしたインディアン役(クレジット無し)[77]
The Case of the Mukkinese Battle Horn (en) (1956年)- グーンズ作品のようなコメディ映画。"Mukkinese" とは「わいせつな膝」("mucky knees") との意味。
The Ruling Class (en) (1972年)- ピーター・オトゥール主演のブラック・コメディ。オープニング・タイトルに交通警察官としてカメオ出演。
The Adventures of Barry McKenzie (en) (1972年)- ブルース・ベレスフォード監督、バリー・クロッカー(英語版)、バリー・ハンフリーズが主演したオーストラリア映画。みすぼらしいアールズ・コート・ホテル(英: Earls Court hotel)の狡猾な地主役を演じた。
『不思議の国のアリス』Alice's Adventures in Wonderland(1972年)- グリフォン役
『われヒトラーとかく戦えり(英語版)』Adolf Hitler: My Part in His Downfall(1972年)[64] - ミリガンの書いた最初の伝記(戦争回想記)を映画化したもの。若き日のミリガンはジム・デイル(英語版)が演じた。
『むく犬ディグビー』Digby, the Biggest Dog in the World(1973年)- 子供向けコメディ
『三銃士』The Three Musketeers(1973年)- 監督はリチャード・レスター。ラクエル・ウェルチ演じるマダム・ボナシュウの夫、ボナシュウを演じた。
Man About the House (en) (1974年)- 同名の人気テレビシリーズを映画化したもの。テムズ・テレビジョンスタジオでのフィナーレで本人役を演じた。
William McGonagall Meets George Gershwin: A Scottish Fantasy (1988年)
William McGonagall: Freefall (1992年)
"According to" シリーズ
タイトルには全て "According to Spike Milligan" との但し書きが付く。これは「スパイク・ミリガンによる」との意味で翻案を示している。これらは "According to" シリーズとしてまとめられている (According to Spike Milligan) 。
The Bible—the Old Testament According to Spike Milligan(1993年、意味:「スパイク・ミリガンによる聖書」)
Lady Chatterley's Lover According to Spike Milligan(1994年、意味:「スパイク・ミリガンによるチャタレイ夫人の恋人」)
Wuthering Heights According to Spike Milligan(1994年、意味:「スパイク・ミリガンによる嵐が丘」)
D. H. Lawrence's John Thomas and Lady Jane: According to Spike Milligan—Part II of "Lady Chatterley's Lover"(1995年、"John Thomas and Lady Jane" は『チャタレイ夫人の恋人』を書いたD・H・ロレンスの小説)
Black Beauty According to Spike Milligan(1996年、意味:「スパイク・ミリガンによる黒馬物語」)
Frankenstein According to Spike Milligan(1997年、意味:「スパイク・ミリガンによるフランケンシュタイン」)
Robin Hood According to Spike Milligan(1998年、意味:「スパイク・ミリガンによるロビン・フッド」)
The Hound of the Baskervilles According to Spike Milligan(1998年、意味:「スパイク・ミリガンによるバスカヴィル家の犬」)
Treasure Island According to Spike Milligan(2000年、意味:「スパイク・ミリガンによる宝島」)
Classic Adventures: According to Spike Milligan (2002)
「ひとりはイアン・マクノートン、スパイク・ミリガンの Q5 シリーズの監督だった。自分たちはみんなあれがテレビでやった最高のコメディ・ショーで、確実にはるか遠く最先端を走っているものだと思っていた・・・」 "One was Ian MacNaughton, director of the Spike Milligan Q5 series which we all thought was one of the best comedy shows on TV and certainly the most far ahead..." — マイケル・ペイリン、The Pythons Autobiography by The Pythons, (p. 218)[27]
^リア(英: Edward Lear)は画家としても活躍したナンセンス詩人。彼の詩は『不思議の国のアリス』などで知られるルイス・キャロルにも大きな影響を与えた。
^原文は以下の通り。"Nobody seemed at all comfortable in their roles and the audience began to hoot with laughter when Milligan's slipper inadvertently went spinning across the stage into the stalls. That was the end of Spike's playing straight. The audience demanded a clown, he became a clown. When he forgot his words, or disapproved of them, he simply made up what he felt to be more appropriate ones. That night there were no riotous first night celebrations and most of the cast seemed to go home stunned. The following night Milligan began to ad lib in earnest. The text of the show began to change drastically. The cast were bedevilled and shaken but they went along with him ... Incredibly, the show began to resolve itself. The context changed completely. It was turned upside down and inside out. Cues and lines became irrelevant as Milligan verbally rewrote the play each night. By the end of the week, Oblomov had changed beyond recognition. Andre Morell came again ... and afterwards said 'the man is a genius. He must be a genius—it's the only word for him. He's impossible—but he's a genius!'. After Oblomov had run for a record-breaking five weeks at the Lyric Theatre, Hammersmith, it was retitled Son of Oblomov and moved to the Comedy Theatre in the West End."
^原文は以下の通り:"I've seen very few moments of genius in my life but I witnessed one with Spike after the first show. He had brought around a silent cartoon"
^原文は以下の通り:"She said she did. 'Good, this needs a commentary.' It was a ten-minute cartoon and Spike could have seen it only once, if that. He ad-libbed the commentary for it and it was perfect. I was open-mouthed at the raw comedy creation in front of me."
^原文:"From his unchained mind came forth ideas that just had no boundaries. And he influenced a new generation of comedians who came to be known as 'alternative'."[66]
^Chapman, G., Cleese, J., Gilliam, T., Idle, E., Jones, T., & Palin, M. (2004). Edited by Bob McCabe. The Pythons Autobiography by The Pythons. Orion(英語版)ISBN 0-7528-6425-4 Chapman's posthumous input via collateral sources
^Fry, Stephen (2002年2月27日). “Fry's Milligan memories”. BBC News. http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/1844487.stm2008年6月12日閲覧. "I think some of his books, Puckoon, particularly and also his wonderful autobiographies, Rommel, My Part in his Downfall and his army reminiscences in the desert and some of his children's poetry and nonsense verse is absolutely immortal - greatly in the tradition of Lear."
^Milligan, Spike (1979). Open Heart University: poems. illustrations by Laura Milligan and Jack Hobbs and Spike Milligan. Walton-on-Thames: M. and J. Hobbs. ISBN0718117573
^Scudamore, Pauline (1985). Spike Milligan: A Biography. London: Granada. ISBN0-246-12275-7 pp.109–110, 258. (Published in 2003 as paperback under Spike, or Spike Milligan, depending on listing)
^Antrobus, John (2002). Surviving Spike Milligan: A Voyage Through the Mind & Mirth of the Master Goon. London: Robson Books. ISBN0-246-12275-7 pp. 17, 24.
^ abMaurice A Smith (ed) (22 April 1967). “Camera spread: Taking a rise out of the serious supermen in TV commercials, Spike Milligan in Bat-Goons outfit leads BP's sales campaign ...”. Autocar126 (3714): 22.
Carpenter, Humphrey (2003). Spike Milligan: The Biography. London: Hodder and Stoughton. ISBN978-0-340-82611-9
Farnes, Norma. Spike: An Intimate Memoir. London, Harper Perennial. 2004. ISBN 1-84115-787-2 [Original, 2003] (Written by his "manager, mentor and troubleshooter for thirty or more years" – Eric Sykes, in Foreword)
Scudamore, Pauline. Spike. London, Sutton Publishing. 2003. ISBN 978-0-7509-3254-7. Google books This is a paperback publication of the hardcover biography, originally published as: Scudamore, Pauline (1985). Spike Milligan: A Biography. London: Granada. ISBN0-246-12275-7