小山源喜
小山 源喜(こやま げんき、1915年7月8日[1][4] - 1991年4月11日)[2][3]は、日本の男性俳優、声優、演出家。東京府東京市向島(現・東京都墨田区)出身[2][3]。戦後のラジオドラマ黄金期を代表する声優。 来歴・人物隅田小、東京府立七中(現・東京都立墨田川高等学校)卒業[1]、東京府青山師範学校中退[3]。1934年(昭和9年)、遠縁に当たる二代目市川小太夫の縁で市川猿之助主宰の春秋座で初舞台を踏む(『若き日の成吉斯汗』)同年6月、丸山定夫のP・C・L映画に入る[4]。1935年(昭和10年)10月、小山映画演劇研究所主宰[4]。1936年(昭和11年)3月、新築地劇団演出部[4](千田是也の助手)を経て、1938年(昭和13年)には文学座旗揚げに参加[4]。 『鐘の鳴る丘』と声優時代1941年(昭和16年)、NHK東京放送劇団の誕生に際し第1期生となる[3]。同劇団の後輩に黒柳徹子、名古屋章、黒沢良、勝田久ら。以後、ラジオ全盛期に声優としてNHKの数多くの名作ラジオドラマで主役を務めた。 とくに、1947年(昭和22年)7月から放送開始となったNHK連続ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』[5](菊田一夫・作)で主役の加賀見修平青年の声を担当したとき、同番組が、戦後早々の時代を代表する国民的な大ヒット番組となったため一躍その名を全国に知られた(放送番組世論調査によると、当時90%近い人が「鐘の鳴る丘のラジオ放送を聴いたことがある」と答えている)。 同番組の主題歌『とんがり帽子』(菊田一夫・作詞 古関裕而・作曲 川田正子、コロムビアゆりかご会・歌)も大ヒットした。 舞台『鐘の鳴る丘』(日劇小劇場・1948年2月)でも主演したが、このときは観客の列が劇場をぐるりと取り囲んで話題になったという。 NHKラジオの主演作品には、このほか『東の国にて』(木下順二・作 1954年 山本安英と二人主役)、『激流』(真船豊・作 1965年)などがある。1967年(昭和42年)、NHKを退団しフリーとなる。 死亡当日の朝日新聞夕刊(1991年4月11日)の一面コラム「素粒子」は、「最後の声優 小山源喜の死に思う、イモ腹で聴いたラジオの『鐘の鳴る丘』の、あの歌声」と記している。 俳優時代ラジオ時代を経て、テレビ、舞台、映画でも活躍。180センチ以上の長身で、父親役や軍人、所長など組織の幹部役が多かったことは、以下の主な出演記録も示している。 テレビ時代のNHK連続番組では『ふしぎな少年』(手塚治虫・原作 1961 - 62年)で主人公の少年サブタン(太田博之)の父親役を務める。『目白三平』(中村武志・原作 1957 - 58年)では主役のサラリーマン役。 NHK朝の連続テレビ小説では、『おはなはん』(樫山文枝・主演 1966 - 67年)や『あかつき』(武者小路実篤・原作。1963 - 64年)に出演。前者ではヒロインおはなはんの夫(俳優は高橋幸治)の父親役。 NHK大河ドラマでは『赤穂浪士』(長谷川一夫・主演 1964年)で吉良家家老・左右田孫兵衛、『竜馬がゆく』(北大路欣也・主演 1968年)では徳川慶喜の側用人・原市之進。『西郷隆盛』(1963年)では板垣退助。ほかに、NHK夜の連続ドラマ番組銀河ドラマ(のち銀河テレビ小説)の『今日のいのち』(山本學・主演 1969年)など出演。 外国連続ドラマの吹き替えでは、NHK『タイムトンネル』(1967年)のカーク研究所長役(俳優はホイット・ビッセル)、NET(現・テレビ朝日)『ドクター・キルディア』(リチャード・チェンバレン主演 1962 - 64年)の病院長役(俳優はレイモンド・マッセイ)など。 舞台は、芸術座『サウンド・オブ・ミュージック』(淀かほる、高島忠夫主演 1965年)でフォン・シェライバー提督、帝国劇場『ビルマの竪琴』(市川染五郎=のち9代目松本幸四郎主演 1975年)で英国軍部隊長、帝国劇場『心中冲也ぶし』(山本周五郎・原作『虚空遍歴』。菊田一夫・脚本。平幹二朗・主演。1971年)で中藤冲也の父親の役などを演じた。日生劇場のこけら落とし『ものみな歌でおわる』(花田清輝・作。仲代達矢・主演。1963年)にも出演。 映画でも、『戦争と人間』(五味川純平・原作 山本薩夫・監督)で村岡長太郎関東軍司令官役、『激動の昭和史 軍閥』(藤本真澄製作・堀川弘通・監督)で鈴木貞次郎企画院総裁役、『不毛地帯』(山崎豊子原作)で山田乙三関東軍司令官役、など。 外国映画でも『ビーチレッド戦記』(コーネル・ワイルド監督・主演 1967年)の日本軍守備隊々長の杉山大佐役を務めている。 演劇活動NHK在職中にキリン座を結成(1951年)するなど演出家としても幅広い演劇活動を展開。その後、程島武夫とともに劇団自由劇場(1958年[4])、発見の会(1964年)の創立に参画し、新劇の世界でも主演演技者兼演出家として活躍した。 さらに、舞台芸術学院講師、大映ニューフェイス演技研究所指導講師など演劇学校講師として人材の育成にも努めた。その演技理論の指導を受けるため、淀かおる、藤里美保、内重のぼるら宝塚の当時のトップスターたちが個人的に師事していた時期もある。 芸名として、一時期、こやま・げんき、東屋源喜(あづまや・げんき)を使用。 類縁生家は江戸時代以来の料亭として森鷗外や谷崎潤一郎、永井荷風、坪内逍遥、正岡子規などの小説・随筆にも登場する東京向島の八百松(やおまつ)の家系。曾祖父に当たる小山松五郎は勝海舟の親友として、『海舟座談』『氷川清話』『竜馬がゆく』などにも登場している。 1991年(平成3年)4月11日、肝臓癌のため千葉県船橋市の病院で死去。享年75。喪主は長男のジャーナリスト小山唯史(こやまただし)。血縁に作家小山清、書道家小山やす子ら。
主な出演作品ラジオ
テレビ
テレビ吹き替え
アニメ映画
舞台
舞台演出参考文献
脚注外部リンク
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