真船豊真船 豊(まふね ゆたか、1902年2月16日 - 1977年8月3日)は、劇作家、小説家。福島県生まれ。代表作に戯曲「鼬」「裸の町」「遁走譜」「中橋公館」、ラジオドラマ「なだれ」などがある[1][2]。映画監督、テレビドラマ演出家の真船禎は息子。 概要1902年(明治35年)、父・禎吉、母・いとの次男として福島県安積郡福良村(現:郡山市湖南町)に生まれる。小学校を卒業後、北海道の海産物商に養子に出されるが小僧扱いを受け1年余で上京、1915年(大正4年)4月、早稲田実業に入学する。この頃より芝居に熱中する。1923年(大正12年)、早稲田大学英文科で横山有策に師事する。在学中に半年ほど病院生活を送り、その後自分を鍛え直すために北海道に行き、遠軽の家庭学校の農場にて働く[3][4]。 1926年(大正15年・昭和1年)、戯曲「水泥棒」「馬市が来て」を発表。1927年(昭和2年)、戯曲「寒鴨」「残された二人」を『早稲田文学』に発表。その後社会主義の影響を受けて早稲田大学を中退、四国で農民運動に参加する。1929年(昭和4年)頃、横山雄策の死去を受けて帰京する。その後大阪毎日新聞大津支局員になるが十ヶ月で退職する。1931年(昭和6年)、プロット(日本プロレタリア演劇同盟)戯曲研究会に参加、またこの頃結婚する[4][5]。 1934年(昭和9年)、戯曲「鼬」が久保田万太郎の演出により創作座で上演されて注目をあびる。1936年(昭和11年)には「太陽の子」「裸の町」「見知らぬ人」、1937年(昭和12年)に「遁走譜」などの作品を発表。「太陽の子」「裸の町」は映画化もされる。また同時期には「なだれ」(1935年)、「激流」(1939年)などのラジオドラマ用の放送劇も書き、昭和13年頃はその界隈で「真船時代」と呼ばれる[4][5]。 1939年(昭和14年)3月、妻が死去。10月、妻の文も載せた随想集『顔』を刊行。「太陽の子」が文学座により初演される。翌年には「遁走譜」が新協劇団により初演。1941年(昭和16年)、「山参道」を発表、新生新派により公演され、翌年、情報局賞を受ける。1942年(昭和17年)5月、満州建国十周年慶祝会に招かれる。北支も訪れる。1944年(昭和19年)3月、北京に旅行。9月、中国に旅行しハルビンで年を越す。1945年(昭和20年)12月、第二次世界大戦の終戦を受けて、引き揚げ帰国する[4]。 戦後は笑劇(ファルス)、諷刺劇、ラジオドラマを中心に活躍。「中橋公館」(1946年)、「黄色い部屋」(1948年)、「赤いランプ」(1954年)、「善光の一生」(1963年)といった戯曲のほか、長編小説『忍冬』なども書く。1948年(昭和23年)、『真船豊選集』全5巻の刊行開始。1952年(昭和27年)3月、第3回NHK放送文化賞を受賞。1955年(昭和30年)、読売文学賞銓衡委員となる[4]。戦後は鎌倉に住んだ。1953-56年読売文学賞選考委員。 1977年(昭和52年)8月3日死去。75歳没[5]。墓所は渋谷区祥雲寺。1979年(昭和54年)、故郷の郡山市湖南町にある青松浜に出世作『鼬』の一節を刻んだ文学碑が建てられる[6]。 著書
脚注
外部リンク
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