三河島町
三河島町(みかわしままち)とは、東京府北豊島郡にかつて存在した町である。現在の荒川区の中部に位置していた。 地理現在の地名では、おおむね荒川、町屋(六丁目、七丁目の一部を除く)にあたる。 歴史由来「三河島」という地名の由来には、以下のような諸説がある。
戦国時代の『北条氏所領役帳』にはすでに「三河ヶ島」の地名が見られる[1]。したがって、徳川家康にまつわる由来説は江戸時代に生まれた俗説とみられる[2]。 沿革
「三河島」の地名のその後第二次世界大戦後の1960年代、三河島町の地名は大部分が「荒川」に、その他東尾久・東日暮里・西日暮里に編入されて消滅した。21世紀初頭の現在は、常磐線三河島駅や京成電鉄新三河島駅、金融機関の支店名[注釈 1]以外にその名をほとんどとどめていない。なお「荒川」への変更は、三河島が荒川区の行政の中心であったためとされる[注釈 2]。 「三河島」という地名の消滅について、1962年(昭和37年)5月3日に発生した三河島事故のイメージを払拭する思惑があったとする説もあるが、地図研究家の今尾恵介は俗説として退けている。「三河島町」の大部分が荒川に変更されたのは1961年10月31日(事故の半年前)である。わずかな面積が数年間「三河島町」として残ったが、道路からはみ出るなどしたわずかな面積であって、もともと他町名への分割編入が意図されたのであろうという。1964年7月1日に東尾久の分割編入が行われたあと、残った部分が1966年3月1日に東日暮里・西日暮里に編入され、行政地名としての「三河島」が消滅した[4]。 人口
交通鉄道都電荒川線の荒川一中前停留場は、三河島町が存在した当時は存在しなかった。 経済農業江戸時代より江戸の近郊農業地帯として発展しており[2][5]、三河島町であった当時も農業が盛んであった。『大日本篤農家名鑑』によれば、三河島村の篤農家は松本雄太郎がいた[6]。 三河島菜三河島では三河島菜という青菜が特産で、漬け菜の代表格とされ、江戸の食文化を支えた[2][5](江戸野菜のひとつ[5])。小松川の小松菜と比肩する人気を誇ったという。 しかし、白菜の普及によって市場での扱いが減少したことや[2][5]、宅地化の進行にともなう農地減少の影響を受け[5]、三河島地域での生産は行われなくなった[2]。 ただし、仙台藩の足軽が参勤交代の際に江戸から三河島菜を持ち帰ったものが仙台地方において生産され、「芭蕉菜」の名で呼ばれている[2](仙台伝統野菜のひとつ「仙台芭蕉菜」[2])。2010年には、芭蕉菜のルーツが三河島菜であることが判明[2]、古文書によっても三河島在来種である「青茎三河島菜」であることが跡付けられた[2]。このため、2010年代以後に「青茎三河島菜」として東京西部の農家で栽培がおこなわれるようになり[5]、東京への「里帰り復活」が行われることとなった[2] 地主三河島町の地主は「松本釜次郎[7]、伊藤岩吉[8]、伊藤梅吉[8]、伊藤鎌吉[8]、伊藤佐太郎[8]、伊藤安兵衛[8]、伊藤亦次郎[8]、伊藤美佐子[9]」などがいた。 商工業
地域施設名所旧跡三河島八景三河島周辺には、瀟湘八景になぞらえた「三河島八景」と呼ばれる景勝があった[1][15]。八景とされるのは以下である[15]。
これらの八景は「まえにあった」とされるものである[15]。1986年(昭和61年)に地元郷土史団体である荒川史談会が設立20周年事業として西田昌功に委嘱し、三河島八景の浮世絵を制作している[15]。 脚注注釈出典
参考文献
関連書籍関連項目外部リンク
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