シルバン・ギュントーリ
シルバン・ギュントーリ[1] ( Sylvain Guintoli, 1982年6月24日 - ) は、フランス・モンテリマール出身のオートバイレーサー。2014年のスーパーバイク世界選手権チャンピオン。 経歴キャリア初期1994年、12歳のときからスクーターレースを始め、翌1995年にはアプリリア・SR50を駆り、史上最年少でフランス国内大会のチャンピオンとなる。その後ロードレースに転向し、2000年にはフランス国内選手権250ccクラスでチャンピオンに輝き、ヨーロッパ選手権250ccクラスでもランキング3位を記録した[2]。 ロードレース世界選手権250ccクラスギュントーリのグランプリデビューは、ワイルドカード枠で参戦した2000年のフランスGP250ccクラスのレースだった。翌2001年にはエキップ・ド・フランスチームからフル参戦を開始し、シリーズランキング14位を記録した。 2002年には最高峰MotoGPクラスに参戦するテック3・ヤマハチームのテストライダーを務め、YZR500を駆ってチェコGPの1戦のみスポット参戦した。2003年には250ccクラスに戻りカンペテーラ・レーシングから参戦、ダッチTTで初表彰台となる3位に入った。ギュントーリはその後2006年シーズンまで、トッププライベーターの一人として250ccクラスに参戦を続けた[3]。 MotoGPクラス2006年シーズンの途中より、ギュントーリはテック3チームに再び招かれて、ダンロップタイヤの開発のためのテストライダーを務めた[4]。そして2007年には玉田誠のチームメイトとして800ccのYZR-M1を駆り、MotoGPクラスにフル参戦デビューを果たした。ドライコンディションではブリヂストン・ミシュラン勢の後塵を拝することが多かったものの、ウェットレースでは強さを見せ、第5戦地元フランスGPでは一時トップを走行、第15戦日本GPでは3位のトニ・エリアスから0.6秒差の4位で完走を果たすなどの活躍を見せた。この年のランキングでは玉田(18位)を上回る16位を記録し、ルーキーシーズンを終えた[5]。 ![]() 2008年シーズンはアリーチェ・チームに移籍し、トニ・エリアスのチームメイトとしてブリヂストンタイヤを履いたドゥカティ・デスモセディチを駆ることになった。ギュントーリは18戦全戦完走、うち17戦ではポイントを獲得する安定度を見せた。ウェットレースとなった第10戦ドイツGPではマシントラブルに見舞われてトラクションコントロールがOFFの状態で走ったにもかかわらず、シーズン自己ベストの6位で完走を果たした[6]。この年のシリーズランキングではエリアスの12位に次ぐ13位を記録した。 2022年シーズン現在はチームスズキ エクスターのテストライダーを務めている。 英国スーパーバイク選手権2009年はMotoGPのシートを見つけることができず、英国スーパーバイク選手権(BSB)に活動の場を移した[7]。クレセント・スズキチームでGSX-R1000を駆ったギュントーリはすぐにマシンに順応し、開幕戦ブランズ・ハッチのレース1でいきなりポール・トゥ・ウィンを遂げる活躍を見せた。ところが第3戦ドニントンでジョシュ・ブルックスと接触・転倒して右足を骨折してしまい長期欠場を余儀なくされ[8]、シリーズランキングは8位に終わった。 スーパーバイク世界選手権![]() 2010年、ギュントーリはスーパーバイク世界選手権(SBK)に戦いの場を移し、ワークスのチーム・スズキ・アルスターでレオン・ハスラムのチームメイトを務めることになった。表彰台の獲得こそ叶わなかったものの、最終戦マニクールのレース1でコースショートカットによるライドスルーペナルティの指示に従わず失格処分を受けた以外は全レースをポイント圏内で完走する安定度を見せ、シリーズランキング7位を記録した。 2011年シーズン、ギュントーリはSBK新規参戦のリバティ・レーシングに移籍、ヤコブ・スムルツをチームメイトに、2010年にドゥカティ・ゼロックスチームが使用したドゥカティ・1198を駆ることとなった[9]。開幕戦のフィリップ・アイランドでは予選3番手につける活躍を見せるが、レース1で転倒しその影響でレース2も欠場するなど幸先の悪いスタートとなる。その後序盤から中盤にかけてはスムルツに後れを取ることが多く苦戦していたが、ソルトレイクシティでSBK参戦後初となる3位表彰台を獲得。この頃から成績も向上しはじめ、6位前後に入ることが多かった。ニュルブルクリンクでは豪雨の中で強さを見せ、自身最高となる2位を獲得。 主なレース戦績ロードレース世界選手権
スーパーバイク世界選手権
脚注
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia