カール・クリング
カール・クリング(Karl Kling、1910年9月16日 - 2003年3月18日)は、ドイツのレーシングドライバー。 概要レーシングドライバーとしては1950年代にダイムラー・ベンツ(メルセデス・ベンツ)のワークスドライバーとして活躍した。 ダイムラー・ベンツが自動車レースに復帰した1952年のカレラ・パナメリカーナにおけるクリングの優勝はドイツ国内で高く評価され、レーシングドライバーとしては初めて、同国のスポーツマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。 1954年にF1参戦し、F1では表彰台を2度獲得し、1954年フランスグランプリのそれはドイツ人としては初のF1表彰台獲得であった。 ダイムラー・ベンツがF1から撤退した際にドライバーを引退し、その後は同社のスポーツ部門の責任者となり、1960年代に同社のラリーチームの監督を務めた[1][W 1]。 その人柄はアルフレート・ノイバウアーから「ステアリングを握った紳士」(Gentleman am Steuer)と讃えられた[W 2]。チームメイトのファン・マヌエル・ファンジオはクリングを「正確で無駄のない、いかにもドイツ的な走り方をする」ドライバーと評した[2]。 経歴1936年にメルセデス・ベンツチームに加入し、テスト走行では良好なラップタイムを刻んだが、ダイムラー・ベンツの製造部門で働くこととなる。 ドライバー時代第二次世界大戦が終結した後、ドイツ人は1945年から1949年にかけて国際レースの参加が不可能であったことから、ドイツ国内レースにBMWとヴェリタス (自動車)を駆って参戦し、1948年と1949年に2リッタースポーツカークラスで、ドイツのスポーツカー選手権でチャンピオンとなる[W 3]。 1951年にメルセデス・ベンツチームに戻り、同チームがブエノスアイレスグランプリに遠征した際、メルセデス・ベンツ・W154で参戦した[W 3]。 1952年に同チームから300SL(W194)の1台を任され、5月に開催された初戦のミッレミリアで2位、11月のカレラ・パナメリカーナでは優勝を遂げる(どちらもハンス・クレンクとのコンビ)[W 2]。この活躍から、1952年のドイツ・スポーツ・マン・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。 1954年フランスグランプリで、同チームがF1参戦を開始したのに伴いデビューした。初戦をチームメイトのファンジオに次ぐ2位で終えたものの[W 3]、F1の決勝レースではこれが最高位となり、翌1955年にチームが撤退するまで、ファンジオや1955年に加入したスターリング・モスに勝つことはできなかった。 監督時代1955年末にダイムラー・ベンツがF1とスポーツカーレースから撤退したのに伴い、それまでチーム監督として同チームを率いていたアルフレート・ノイバウアーも引退し、クリングはノイバウアーの跡を引き継いでスポーツ部門の責任者に就任した[1][W 4][W 1]。 しかしながら、1956年以降もプライベーターを支援する形でモータースポーツ活動を続け、ラリーではモンテカルロラリー、アクロポリスラリー、1000湖ラリーといった多くの国際的なラリーで優勝を遂げることとなる。1960年代前半のヨーロッパラリー選手権(ERC)では監督として自社チームを率い、1960年には同チームのヴァルター・ショック、1962年には同じくオイゲン・ベーリンガーがヨーロッパラリーチャンピオンに輝いた[1][W 1]。 1968年に退職して引退したが、その後もコンサルタントとして同社のスポーツ部門に協力を続けた[W 3][W 2]。 レース戦績F1
ル・マン24時間レース
ミッレミリア
カレラ・パナメリカーナ
脚注出典
参考資料
外部リンク
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