1955年アルゼンチングランプリ (1955 Argentine Grand Prix) は、1955年のF1世界選手権第1戦(開幕戦)として、1955年1月16日にアウトドローモ・17・デ・オクタブレで開催された。
レースはメルセデスのファン・マヌエル・ファンジオが予選3位から優勝、フェラーリのホセ・フロイラン・ゴンザレス、ジュゼッペ・ファリーナ、モーリス・トランティニアン、ウンベルト・マグリオーリの4人が車両を共有して2位および3位となった。
レース概要
メルセデスはエースのファン・マヌエル・ファンジオに加え、若手スターリング・モスを招き入れてより強固な体制を整えた。フェラーリはマイク・ホーソーンがヴァンウォールへ去り、ホセ・フロイラン・ゴンザレスは前年9月に行われたRACツーリストトロフィー(スポーツカー世界選手権)で重症を負い頼りにできず、ジュゼッペ・ファリーナはキャリアの下り坂で、モーリス・トランティニアンは堅実だが瞬発力に乏しい。マシンの625と555も今ひとつ。モスを失ったマセラティも、ジャン・ベーラやルイジ・ムッソといった若手たちに期待せざるをえない状況だった[2]。
アルゼンチンの1月は真夏に当たり、決勝は猛暑を避けるため夕方4時からのスタートとなった。3周目にアスカリがトップを奪い、ゴンザレス、ファンジオ、モスが続く。しかし、アスカリは21周目にコースを飛び出してリタイアとなった。以後、ゴンザレスやファリーナなど多くのドライバーがあまりの暑さに参りピットインして別のドライバーに交代するという状況になる。結局、3時間のレースを1人で走り切ったファンジオが母国レースで2年連続の優勝を飾った。ファンジオ以外に1人で走り切り完走を果たしたのは5位のロベルト・ミエレス(ファンジオ同様地元出身)のみで、他の完走車は2人ないし3人が交代しながらようやく完走にこぎつけた。2位と3位に入賞したフェラーリ2台および4位入賞のメルセデスは各車3人が乗り込んだため、ポイントは3人で等分され、3位のフェラーリをドライブしたファリーナ、トランティニアン、ウンベルト・マグリオーリには11⁄3点ずつ(ファリーナとトランティニアンは2位のマシンも乗ったため合計31⁄3点)という奇妙なポイントが与えられた[2]。
エントリーリスト
- 追記
結果
予選
決勝
注記
第1戦終了時点のランキング
- ドライバーズ・チャンピオンシップ
- 注: トップ5のみ表示。ベスト5戦のみがカウントされる。
脚注
参照文献
外部リンク