1957年アルゼンチングランプリ (1957 Argentine Grand Prix) は、1957年のF1世界選手権第1戦(開幕戦)として、1957年1月13日にブエノスアイレス・サーキットで開催された。
レース概要
前年の王者ファン・マヌエル・ファンジオはフェラーリを去り、マセラティに移籍した。マセラティのエースだったスターリング・モスはヴァンウォールへ移籍したが、当レースはヴァンウォールやBRMなどのイギリス勢がすべて欠場した(参加したのはマセラティ、フェラーリ各7台のみ)ため、引き続きマセラティのワークス・チームから参加した。フェラーリはマイク・ホーソーンが復帰して、ピーター・コリンズやエウジェニオ・カステロッティといった若手中心のドライバー体制となり、マシンは前年のD50にさらなる改変を加え、マシン名も「フェラーリ・801F1」と改められた。マセラティはファンジオの加入とマシン(250F)の熟成により体制強化を図った。
ポールポジションを獲得したモスはレース序盤にスロットルリンケージが壊れ、その修理に手間取ったため優勝争いから脱落した。その後ファステストラップを記録し、ファンジオと競り合うなど速さを見せたが、序盤の出遅れが響いて7周遅れの8位に終わった[1]。フェラーリ勢はカステロッティやコリンズが序盤は首位を走行したが、コリンズ、ルイジ・ムッソ、ホーソーンが相次いでクラッチのトラブルでリタイアするなど苦戦を強いられた。フェラーリ勢が脱落するとファンジオとジャン・ベーラが他を引き離し、ファンジオは4年連続で母国レースを制覇した。唯一ファンジオと同一ラップのベーラが2位、1周遅れの3位にカルロス・メンディテギー、2周遅れの4位にハリー・シェルとマセラティ勢が1-4位を独占した。
次戦モナコGPまで4ヶ月のインターバルがあったが、この間フェラーリは相次ぐ悲劇に襲われた。3月半ば、カステロッティがモデナでのテスト走行中に事故死してしまい、5月のミッレミリアではアルフォンソ・デ・ポルターゴが観客を巻き込む大事故によって亡くなった。この事故によりミッレミリアはこの年をもって終了することになった[2][3]。
エントリーリスト
- 追記
- ^1 - 交代要員としてエントリー
- ^2 - 交代要員としてエントリーしたが、予選はゴンザレスが走行した
結果
予選
決勝
- 追記
注記
第1戦終了時点のランキング
- ドライバーズ・チャンピオンシップ
- 注: トップ5のみ表示。ベスト5戦のみがカウントされる。
ギャラリー
脚注
参照文献
外部リンク