相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市の町名。現行行政地名は相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域。
地理
神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1950年代までにほぼ全域が宅地市街化している。元の開墾農地の地割を反映し街路網自体は直線的である。
概略
終戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間字北広野、大字新田宿飛び地である現地域での市街地化[7]の進行とともに救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)、1959年4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。
旧地籍は高座郡座間町大字座間字北広野・字中広野の各小字全域と・字南広野・字元広野・字元広野窪の座間街道以北(現・相模が丘一丁目〜四丁目)、辰街道[8]を境界に大字新田宿飛び地字見分塚の大部分(現・相模が丘五丁目)、江戸みち[9]を境に同飛び地字見分塚の残り部分と字新畑全域・大字四ツ谷飛び地字二ツ塚の座間街道以北(現・相模が丘六丁目)の各大字小字・飛び地である[10][11]。
その一方で、相模原市は1957年8月1日に国立病院前分室(「国病前分室」と略する)と言う相模原市役所の出張所を新規開設し、小田急相模原駅付近から大字新磯野、大字麻溝台の各東半部を管轄区域とした。1959年には、この「国病前分室」を相模台分室と改称、同年5月1日に相模原市立相模台小学校が開校、1963年には、神奈川県立相模台工業高等学校[12]が開校し、1966年10月には国立病院の南に隣接して日本住宅公団相模台団地が竣工し入居開始、翌1967年4月1日に相模原市立相模台中学校が開校されるなど、相模原市側で「相模台」の地名を多用するようになった[13]。
相模原市は1969年7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目を編成し、翌1970年7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町が編成されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台とが隣接して併存することとなった[14][15]。
1971年11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れて1981年6月1日に大字相模台地区で住居表示[16]を実施した際、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために町名を相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目とした。
歴史の詳細
「芝原(しばあら)」と呼ばれる原野であった小田急相模原駅周辺から、現在の広野台・小松原・ひばりが丘・さがみ野・東原あたりの区域は、元々周辺農村の入会地とされていて、それまで人が誰も住んでおらず江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。
江戸末期の嘉永6年(1853年)[17]にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、現在の小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村、新戸村、座間宿村、新田宿村飛び地の各村が境界を接する区域となり、1877年、高座郡上鶴間村(現・相模原市南区南台五丁目)に中和田新開[18]が開墾[19]された。
やがて1889年の明治の大合併により同郡大野村大字上鶴間(現・相模原市南区南台五丁目)、新磯村大字新戸・大字磯部[20](現・相模原市南区相模台二丁目)、座間村大字座間字北広野(現・座間市相模が丘一丁目)・大字新田宿飛び地字見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)となった。
その後、1894年になって開拓者たちは次々と府中みち(現・行幸道路)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加った。その人衆の内、中和田新開の座間分に最初に住み着いたのは座間上宿出身の耕作者たった一軒だけであった。
1919年には14戸にまでなった中和田新開は府中みち(現・行幸道路)と辰街道[21]。の交差する未開地のなかに小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の「原点」となった。
1937年9月30日市ヶ谷より陸軍士官学校が現在のキャンプ座間の地に移転してくると、翌1938年から、高座郡大野村に、臨時東京第三陸軍病院、陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・学校法人麻布獣医学園ほか)が開設され、当時陸軍は小田原線・江ノ島線沿いの大野村上鶴間(現・相模原市南区上鶴間・相模大野・東林間・旭町・豊町・栄町・南台ほか)、小田急相模原駅近辺の新磯村新戸(現・相模原市南区相模台)磯部(現・相模原市南区相模台・相模台団地・桜台)、座間町新田宿飛び地見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)・座間字北広野・座間字中広野(現・座間市相模が丘一丁目~三丁目)までの地域を原町田(東京府南多摩郡町田町、現在の東京都町田市)の一部としてまとめて扱うことが多く、電話が町田電報電話局管内(現・相模原MA[22])であるのはその名残である。
大きな転換点となったのは、前述のとおり1938年の臨時東京第三陸軍病院の進出である。高座郡新磯村磯部字大野[23]に同病院が開設されるのに合わせて、小田原急行鉄道が、同年3月1日に付近を通過していた小田原線上の座間町[24]と大野村との境界付近に相模原駅[25]を開業し、後に同駅と同病院を結ぶ街路[26]周辺が市街化する契機となった。
そののち戦時色が濃くなった1943年に座間分の新田宿飛び地である、当時の高座郡相模原町大字新田宿飛び地字見分塚(現・相模が丘五丁目)に本格的に人が住み着いた。大部分が東京市内から移り住んだ人たちである。皆、昭和十八年にこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った[27][28]。
当時のこの地は一面、桑・麦・陸稲を栽培する耕作地であったが、段上の地であることが災いし「水」がなく苦労した。太平洋戦争終戦後の1949年県営相模原畑地灌漑事業が着工し[29]、1953年畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始したが、相模が丘の元の大字である座間と新田宿は畑地灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった[30]。1955年には町営水道が完成するとともに宅地化され[31]、1960年には現・六丁目に小田急住宅が完成し、全域で宅地市街化。畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え1970年に通水を終了した。
年表
世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 |
世帯数 |
人口
|
相模が丘一丁目
|
2,644世帯
|
4,529人
|
相模が丘二丁目
|
1,928世帯
|
3,478人
|
相模が丘三丁目
|
1,622世帯
|
3,033人
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相模が丘四丁目
|
1,906世帯
|
3,520人
|
相模が丘五丁目
|
2,655世帯
|
4,822人
|
相模が丘六丁目
|
1,728世帯
|
3,820人
|
計
|
12,483世帯
|
23,202人
|
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[54]。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[55]。
丁目 |
事業所数 |
従業員数
|
相模が丘一丁目
|
130事業所
|
1,711人
|
相模が丘二丁目
|
73事業所
|
420人
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相模が丘三丁目
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55事業所
|
291人
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相模が丘四丁目
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72事業所
|
642人
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相模が丘五丁目
|
151事業所
|
784人
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相模が丘六丁目
|
58事業所
|
1,374人
|
計
|
539事業所
|
5,222人
|
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
交通
鉄道
町内に鉄道駅はない。
バス
- 座間市コミュニティバス(ザマフレンド号)の路線
- Bコース(小松原・病院経由コース)
- Cコース(相模が丘コース)
道路
施設
その他
日本郵便
脚注