相模が丘

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相模が丘
町丁
地図北緯35度30分33秒 東経139度25分26秒 / 北緯35.509269度 東経139.423817度 / 35.509269; 139.423817
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県の旗 神奈川
市町村 座間市
人口情報2023年令和5年)8月1日現在[1]
 人口 23,202 人
 世帯数 12,483 世帯
面積[2]
  1.365015691 km²
人口密度 16997.61 人/km²
設置日 当該地域各大字小字を統合・地番整理を施行し 1959年昭和34年)4月20日高座郡座間町大字相模台起立。<1981年(昭和56年)6月1日座間市相模が丘と町丁に変更し住居表示施行>
郵便番号 252-0001[3]
市外局番 042(相模原MA)(一、二、三丁目の相模が丘仲よし小道さくら百華の道以北と五丁目全域。)[4]
046(厚木MA)(上記以外)[5][6]
ナンバープレート 相模
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相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市町名。現行行政地名は、相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域。

地理

神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1950年代までにほぼ全域が宅地市街化している。元の開墾農地の地割を反映し、街路網自体は直線的である。

町名の紆余曲折

当区域は元々相模野・座間野・芝原(しばあら)と呼ばれる原野の一部であり、周辺農村の入会地とされていた。それまで人が誰も住んでおらず、江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった[注釈 1]

江戸末期嘉永6年(1853年[7]にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村新戸村座間村北広野、新田宿村飛地見分塚の各村が境界を接する区域となり、やがて1889年明治の大合併により高座郡大野村大字上鶴間<現・相模原市南区南台>、新磯村大字新戸・大字磯部[8]<現・相模原市南区相模台>、座間村大字座間北広野・大字新田宿飛地字見分塚<現・座間市相模が丘>となった。

地籍は高座郡座間町大字座間字北広野・字中広野の各小字全域と・字南広野・字元広野・字元広野窪座間街道以北(現・相模が丘一丁目〜四丁目)、辰街道[9]を境界に大字新田宿飛地字見分塚の大部分(現・相模が丘五丁目)、江戸街道[10]を境に同飛地字見分塚の残り部分と字新畑全域・大字四ツ谷飛地字二ツ塚の座間街道以北(現・相模が丘六丁目)の各大字小字・飛地である[11]

終戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間字北広野、大字新田宿飛地をはじめとした相模が丘の宅地化が進行し、救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)[12]1959年4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した[13][14][15]

相模原市は1969年7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台丁目〜相模台四丁目を編成し、翌1970年7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町丁が編成されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台が隣接して併存することとなった。

1971年11月1日市制施行した座間市が、相模原市に遅れて1981年6月1日に大字相模台地区で住居表示を実施した際[16][17]、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために町名を相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目とした。

歴史の時系列と詳細

この地は既に1880年高座郡座間村北広野(相模が丘一丁目)、新田宿村飛地字見分塚(相模が丘五丁目)、上鶴間村相模原市南区南台五丁目)、新戸村(相模原市南区相模台二丁目)、各村の境界域(小田急相模原駅北口付近)[18]に中和田新開[19]開墾され、上鶴間村分には人が住み着いて耕作していたが、1894年になって中和田新開の座間分座間中宿出身者1人が居を構え入植に加わる[20]

1919年には14戸にまでなった中和田新開は府中道(行幸道路旧道)と辰街道[21]の交差する未開地の中に小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の原点となった。

1937年9月30日市ヶ谷より陸軍士官学校キャンプ座間の地に移転すると、1938年から高座郡大野村に、臨時東京第三陸軍病院陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・麻布大学ほか)が開設され、当時陸軍小田原線沿いの大野村上鶴間(現・相模原市南区相模大野旭町豊町栄町南台ほか)、小田急相模原駅近辺の新磯村新戸(現・相模原市南区相模台磯部(現・相模原市南区相模台・相模台団地桜台)、座間町新田宿飛地見分塚・座間字北広野・座間字中広野(現・座間市相模が丘)までの地域を原町田の一部としてまとめて扱うことが多く、電話が町田電報電話局管内(現・相模原MA)であるのはその名残である。


大きな転換点となったのは、前述のとおり臨時東京第三陸軍病院[22][23]の進出である。1938年3月1日の開院に合わせ、小田原急行鉄道が、中和田新開を通過していた小田原線上の座間町大野村との境界に相模原駅[24][25]を開業し、同駅と同病院を結ぶ街路[26]周辺が市街化する契機となった[27]

新田宿飛地(相模が丘五丁目・六丁目)の所有者は、他の地域同様、江戸時代末期文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成したが[28]、本村から遠く、通いでの耕作は大変であったので畑に植林して松林とした[29]。小田急線が開通して4年後、1931年長野県から移住した人[30]を皮切りに、1937年から1943年にかけて、新田宿飛地見分塚(相模が丘五丁目)に本格的に人が住み着いた。東京市三河島から陸軍関係施設の建設に従事した人[31]神田の青果問屋の番頭だった人[31]練馬の大地主で漬物屋だった人は陸軍に土地を買収されたため相模が丘に移ってきた[31]東林間水道新開から移住した人、様々な理由・所縁で相模が丘に移住して来た[32]。皆、昭和十八年までにこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った[33]。戦時中、高座郡旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅一帯を相模台と呼んでいた[34]

戦前・戦中・戦後にかけて、相模が丘・広野台は幸い軍用地の買収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた[35]

この地は地下の水脈が約25mと深く、その上関東ローム層という火山灰土の不毛な土壌干害を受けやすかったが、栽培には適地であったので主に桑園として利用され、陸稲甘藷大根なども栽培した[36][37]戦後1949年県営相模原畑地灌漑事業が着工され、1953年、畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始したが、相模が丘の元の大字である座間と新田宿は灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった[38]1955年に町営水道が完成、1958年には相模が丘六丁目に小田急住宅が開発分譲され[39]、市街地化。畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え1970年3月に通水を終了した[40]

年表

世帯数と人口

2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
相模が丘一丁目 2,644世帯 4,529人
相模が丘二丁目 1,928世帯 3,478人
相模が丘三丁目 1,622世帯 3,033人
相模が丘四丁目 1,906世帯 3,520人
相模が丘五丁目 2,655世帯 4,822人
相模が丘六丁目 1,728世帯 3,820人
12,483世帯 23,202人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

人口推移
人口
1995年(平成7年)[99]
19,766
2000年(平成12年)[100]
22,561
2005年(平成17年)[101]
22,646
2010年(平成22年)[102]
23,214
2015年(平成27年)[103]
23,298
2020年(令和2年)[104]
23,880

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[99]
8,603
2000年(平成12年)[100]
10,050
2005年(平成17年)[101]
10,165
2010年(平成22年)[102]
10,838
2015年(平成27年)[103]
11,226
2020年(令和2年)[104]
12,183

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[105]

丁目 番・番地等 小学校 中学校
相模が丘一丁目 全域 座間市立相模が丘小学校 座間市立相模中学校
相模が丘二丁目 全域
相模が丘三丁目 全域
相模が丘四丁目 全域 座間市立相模野小学校
相模が丘五丁目 全域 座間市立相模が丘小学校
相模が丘六丁目 全域 座間市立相模野小学校

事業所

2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[106]

丁目 事業所数 従業員数
相模が丘一丁目 130事業所 1,711人
相模が丘二丁目 73事業所 420人
相模が丘三丁目 55事業所 291人
相模が丘四丁目 72事業所 642人
相模が丘五丁目 151事業所 784人
相模が丘六丁目 58事業所 1,374人
539事業所 5,222人

事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移
事業者数
2016年(平成28年)[107]
573
2021年(令和3年)[106]
539

従業員数の変遷

経済センサスによる従業員数の推移。

従業員数推移
従業員数
2016年(平成28年)[107]
5,426
2021年(令和3年)[106]
5,222

交通

鉄道

町内に鉄道駅はない。

バス

道路

施設

その他

日本郵便

脚注

  1. ^ a b 町丁字別年齢別人口統計表(令和5年)” (CSV). 座間市 (2023年8月8日). 2023年8月16日閲覧。 “(ファイル元のページ)(CC-BY-4.0)
  2. ^ 『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2023年8月16日閲覧。(CC-BY-4.0)
  3. ^ a b 相模が丘の郵便番号”. 日本郵便. 2023年8月9日閲覧。
  4. ^ NTT東日本-南関東 東京事業部 東京西支店管轄
  5. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  6. ^ NTT東日本-南関東 神奈川事業部 神奈川西支店管轄
  7. ^ この年から芝原の開墾が始まり、文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成し座間村・新田宿村・座間入谷村・四ツ谷村の各戸に平等に分割され耕作が始まった。栗原村域の開墾は慶応4年(1868年)にはじまった。『座間の語り伝え 村制編1・村の起こり 60頁・61頁 』『座間の地名18頁』『座間むかしむかし第1集18頁・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・字名のおこり4頁』『座間むかしむかし第3集17頁~19頁・相模台の昔』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
  8. ^ 当該地域は1951年1月に統合され高座郡相模原町大字新磯野が起立した。
  9. ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近から小田急相模原駅付近を通って座間市海老名市綾瀬市大和市を経て藤沢市に至る街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)縦断する道であった。名前の由来もそこにある。
  10. ^ 相武台前駅踏切を渡り相模が丘に向かう道。相模野小学校下、元広野と元広野窪の境界道である小池窪の坂を直進し農道(現・座間街道)を渡り、相模が丘中部(三丁目と四丁目の境界道路・五丁目と六丁目の境界道路)を縦貫し、東海大学付属相模高等学校・中等部相模カンツリー倶楽部の間の道を通り、八王子道(滝山道)を渡り、大和市下鶴間公所(ぐぞ)、鶴間村町谷原町田市南町田町田街道の町谷原交差点)、小川村を経て、長津田宿大山街道(矢倉沢往還)に合流し江戸三宅坂へ向かい日本橋に通ずる道。引用元:『座間むかしむかし第25集 相模が丘(芝原)の移り変わり 3街道の移り変わり5頁・6頁』
  11. ^ 『座間の地名・付録 昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」』座間市字概略図”. のうかる. 2016年12月7日閲覧。
  12. ^ 『座間の語り伝え 村制編1・村の起こり 第2部-1、相模が丘・広野台68頁』
  13. ^ 『座間広報第64号 昭和34年7月15日発行1頁』に「大字相模台の設置~従来とかく相模台の新田宿と新田宿が間違れ迷惑する事が多かったのでこれを除くため芝原の行政道路(鶴間行)以北を相模台とし、小字は北広野・中広野・南広野とした。」と記述あり。※原文ママ
  14. ^ 座間の地名26頁
  15. ^ 引用元:『座間の地名・付録昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」』座間市字概略図”. のうかる. 2016年12月7日閲覧。「相模銀座」・通称(森川通り)の歴史”. さがみパらねっと. 2018年11月19日閲覧。
  16. ^ 相模が丘地区(昭和56年6月1日施行)”. 座間市. 2024年7月11日閲覧。
  17. ^ 不動産登記法に基づく地番は、1959年4月20日に高座郡座間町大字相模台として新しい大字を新設した際、新たに地番の付け直した地番のまま。
  18. ^ それらの村は1889年明治の大合併により同郡座間村(大字座間字北広野、大字新田宿飛地見分塚)、大野村(大字上鶴間)、新磯村(大字新戸、大字磯部)となった。
  19. ^ 座間分の本村である座間村座間入谷村新田宿村四ツ谷村栗原村の人々は「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集4頁・字名のおこり』。中和田新開の詳細は南台の頁を参考されたし。
  20. ^ 『座間の地名20頁①中和田新開』・『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)』
  21. ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近から小田急相模原駅付近を通って座間市海老名市綾瀬市大和市を経て藤沢市に至る街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)縦断する道であった。名前の由来もそこにある。引用元:座間の地名15頁・16頁
  22. ^ 高座郡大野村上鶴間新磯村磯部字大野に跨っている。 引用元:『昭和4年刊行土地宝典・高座郡新磯村地番反別入図』。『座間広報20号 昭和26年3月10日発行2頁』に「国立相模原病院 所在地:相模原町上鶴間4719番地」と記載。
  23. ^ 神奈川県高座郡大野村 (14B0060015)”. 歴史的行政区域データセットβ版. 2024年12月28日閲覧。神奈川県高座郡新磯村 (14B0060011)”. 歴史的行政区域データセットβ版. 2024年12月28日閲覧。
  24. ^ a b 鉄道省監督局「地方鉄道、軌道事業の現況並に異動」『電気協会雑誌』第196号、日本電気協会、1938年4月、附録4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
  25. ^ 相模台地区の都市化の移り変わり”. 相模台地区自治会連合会. 2017年7月19日閲覧。※病院前駅として開業と言う記述あり。1941年3月1日小田原急行鉄道は小田急電鉄と改称、同年4月5日に小田急相模原駅と改称。
  26. ^ 古来からの辰街道。現・サウザンロード相模台(国立病院通り)。往時は高座郡座間村大字座間字北広野・大字新田宿飛地字見分塚<現・座間市相模が丘>、大野村大字上鶴間<現・相模原市南区南台>と新磯村大字新戸・大字磯部<現・相模原市南区相模台>の境界となっていた。
  27. ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 33頁◇臨時東京第三陸軍病院)』
  28. ^ 『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり60頁・61頁』
  29. ^ 引用元:『座間むかしむかし第25集 相模が丘(芝原)の移り変わり1はじめに1頁・2頁』
  30. ^ 引用元:『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり62頁』
  31. ^ a b c 引用元:『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり63頁』
  32. ^ 引用元:『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり62頁~64頁』
  33. ^ 引用元:『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり64頁』
  34. ^ 引用元:『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり60頁~64頁』
  35. ^ 引用元:『座間むかしむかし第25集 相模が丘(芝原)の移り変わり 5食糧難と畑地灌漑8頁』
  36. ^ 『座間の地名89頁』・『座間むかしむかし第25集 相模が丘(芝原)の移り変わり2頁・3頁』
  37. ^ 座間の翁が青年時代、広野台の一番高い所である行政道路(座間街道)相武台跨線橋で詠んだ句「麦青し見えるところに牛つなぐ」引用元:『座間むかしむかし第25集 戦前から戦後のまちの様子 3小田急線開通当時から戦後までの相武台19頁』
  38. ^ 新田宿・座間・座間入谷には本村に水田があり困らないこと、工事負担金と使用量が相当高額になってしまうことが理由である。栗原は用水組合に加入したため、ひばりが丘二丁目~四丁目全域・五丁目の大部分、東原さがみ野ほか栗原全域で灌漑用水を利用できた。引用元:『座間むかしむかし第25集 相模が丘(芝原)の移り変わり5食糧難と畑地灌漑8頁~11頁』
  39. ^ 「相模銀座」・通称(森川通り)の歴史”. さがみパらねっと. 2018年11月19日閲覧。「相模銀座」・通称(森川通り)の歴史-オダサガ南部、昭和36年(1961年)当時-”. さがみパらねっと. 2018年11月19日閲覧。
  40. ^ 1970年3月、用水を管理していた「相模原畑地灌漑土地改良区」が解散し通水終了。引用元:座間の地名25頁
  41. ^ 座間市地名・字名とその由来”. 座間市. 2024年5月27日閲覧。
  42. ^ 『座間の地名 執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行 11頁~14頁』
  43. ^ 相模野は全体で2000町歩(2000ヘクタール)の広さを有しているが、この地は関東ローム層という火山灰土で地味も悪く、その上、地下の水脈が約25mと深く農地に適さないので原野のままになっていた。しかしこの原野には屋根を葺く・燃料になる雑木や葉・牛馬の飼料になる雑草・農作物の堆肥となる雑草や落葉などが豊富なので、周辺の村々は入会野として利用した。座間村でも古くから相模野の内、相模が丘・広野台相模原市南区相模台を入会野としていた。引用元:座間の地名15頁
  44. ^ 慶安2年(1649年4月幕府が裁定を下し①北の境※は百八ツの供養塚を潰し百六の塚とし、南の境は水郷(みずのごう・大和斎場付近)とした。※上鶴間村中和田(相模原市南区南台五丁目)・新戸村(南区相模台二丁目)・座間村(座間市相模が丘一丁目)の境界点、辰街道と府中道旧道が交差する所。引用元:『座間むかしむかし第六集15頁~23頁 夏草騒動』『相模原市史 第2巻第2章第2節 秣場争い238頁』『相模原市史 第2巻 慶安3年(1650年8月25日付 中和田・座間秣場争い裁許の図』『東林間開発百年のあゆみ 昭和62年11月3日発行 71頁 五・相模野の秣場争い◇二・地域の風土・歴史』②今まで分かりにくかった境界に幅3.6mの道路(都市計画道路相模原二ツ塚線 通称・東海相模通り)を造り、辰街道と境界道路(東海相模通り)を結ぶ接点に目印として(東海大学付属相模高等学校・中等部の西側、扇の要にあたるところ)検(見)分塚(高さ2~3mの塚)を築いた。③座間側の主張である徳川家康入国当時の境界線を認めた。以上引用元:座間の地名15頁・16頁。
  45. ^ 前年の正保3年(1646年)にも座間村と上鶴間村中和田地域とで境界争いが紛糾した。引用元:『相模原市史 第2巻第2章第2節 秣場争い238頁』『座間の地名 執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行 15頁』、『東林間開発百年のあゆみ 昭和62年11月3日発行 71頁 五・相模野の秣場争い◇二・地域の風土・歴史』
  46. ^ 分村の際、境域については元は一つの村であったので<田畑・山林等犬牙錯雑して区別すべからず>と達しがあり、入り組んだものが後世に残ることになった。座間の地名38頁
  47. ^ 座間市地名・字名とその由来”. 座間市. 2024年5月27日閲覧。
  48. ^ 中和田野(上鶴間村中和田持)、谷口野(上鶴間村谷口持)、宇野森野(鵜野森村持)、木曽野(淵野辺村・武蔵国多摩郡木曽村・武蔵国多摩郡根岸村三ヵ村入会)、矢部野(上矢部村・上矢部新田村二ヵ村入会)、九沢野(小山村・橋本村・上相原村・下九沢村・上九沢村・大島村・田名村・津久井郡上川尻村・津久井郡下川尻村九ヵ村入会)、溝野(上溝村・下溝村・当麻村三ヵ村入会)、座間野(磯部村・新戸村・座間宿村・座間入谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】・四ツ谷村・新田宿村九ヵ村入会)、柏谷野(柏ヶ谷村・深見村・深見新田・草柳村・栗原村内小池地区)、鶴間野(下鶴間村・公所村)の10区画。引用元:『座間の地名16頁』・『相模原市史 第2巻第2章第2節 相模野の入会とその開発229頁』
  49. ^ 座間野は新戸村磯部村・座間宿村・座間入谷村・新田宿村四ツ谷村栗原村大谷村小園村今里村の説もあり】の9ケ村の入会野で、その野元権は座間宿村と座間入谷村が持っていた。引用元:『座間の地名16頁』・『相模原市史 第2巻第2章第2節 相模野の入会とその開発229頁』
  50. ^ 元禄年間に広野台の元広野・元広野窪、相模が丘の一丁目~四丁目(北広野・中広野・南広野)は座間宿村分、相模が丘五丁目・六丁目(検分塚・新畑)は新田宿村分、六丁目(二ツ塚)は四ツ谷村分とされた。座間の地名89頁
  51. ^ 引用元:座間の地名16頁
  52. ^ 座間宿村・座間入谷村・新田宿村四ツ谷村栗原村・磯部村・新戸村に分割した。引用元:座間の地名17頁
  53. ^ 『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり60頁・61頁』『座間の地名17頁・18頁・89頁』
  54. ^ 栗原分の開墾慶応4年(1868年)に始まった。引用元:『座間の語り伝え 村制編1・村の起こり 60頁・61頁 』『座間の地名18頁』
  55. ^ 引用元:『座間の地名89頁』
  56. ^ 座間宿村は1868年に座間村になった。引用元:座間の地名18頁
  57. ^ 現・明王 引用元:座間の地名68頁
  58. ^ 南台の頁を参考されたい。
  59. ^ a b c d 座間広報第48号 昭和30年6月5日発行6頁
  60. ^ 相模台地区の都市化の移り変わり”. 相模台地区自治会連合会. 2017年7月19日閲覧。※病院前駅として開業と言う記述あり。1941年3月1日小田原急行鉄道は小田急電鉄と改称、同年4月5日に小田急相模原駅と改称。
  61. ^ 旧道路法からの引継路線(神奈川県)昭和28年2月10日。告示第54号
  62. ^ 小田急電鉄(株)『小田急五十年史』(1980.12)”. 渋沢社史データベース. 2024年12月10日閲覧。
  63. ^ 相模原市史第4巻655頁には7,608人と記述あり。
  64. ^ 9.戦争(せんそう)と相模原”. 相模原市. 2024年12月16日閲覧。
  65. ^ 相模原市史第4巻650頁には「昭和16年4月29日天長節の佳日、二町六か村は合併し、ここに面積108.71平方キロメートル、人口45,482人の町としては日本最大の相模原町が誕生した。※原文ママ」の記述あり。
  66. ^ 『鶴間新町のルーツを探る座談会22頁「行政道路(座間街道)の工事」大和市市史編さん事務局』・『座間市史4 272頁基地の町の実情・501頁米軍移駐にともなう交通対策につき陳情』・『座間の語り伝え村制編1村の起こり69頁』
  67. ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日市制施行して人口約8万人の相模原市が発足した。引用元:座間の地名25頁
  68. ^ a b c 引用元:座間の地名25頁
  69. ^ 完成は1963年度の年度末である1964年3月
  70. ^ 相模が丘の元の大字である座間と新田宿は用水組合に加入しなかったため用水を利用出来なかった(※新田宿・座間・座間入谷の三地区には水田があり困らないこと、工事負担金と使用量が相当高額になってしまうことが理由である)。しかし水路に当たる畑の所有者は、苦労して入手した畑だったが喜んで提供した。東西二本の幹線水路を、きれいな相模川の水が勢いよく流れた。夏の作業のも終わり土と汗で汚れた身体をこの水で洗った時の気持ち良かったこと。陸稲の畑に水を流した。昔は豊作で三俵くらいしか穫れなかった米も、六俵の収穫があった。長い間望んでいた、豊かな農地が生まれた。引用元:『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 48頁 畑地灌漑事業の完成◇四・終戦~再び開拓』『座間むかしむかし第25集 相模が丘(芝原)の移り変わり 5食糧難と畑地灌漑8頁~11頁』
  71. ^ (路線認定告示で用いられる整理番号38)
  72. ^ 座間広報第66号 昭和35年7月20日発行8頁『工場設置の状況』に記述あり。
  73. ^ 「相模銀座」・通称(森川通り)の歴史”. さがみパらねっと. 2018年11月19日閲覧。「相模銀座」・通称(森川通り)の歴史-オダサガ南部、昭和36年(1961年)当時-”. さがみパらねっと. 2018年11月19日閲覧。
  74. ^ 町田市柿生交換局管内の三輪町を除く)、相模原市上鶴間麻溝台鵜野森全域、大沼の大部分、磯部新磯野古淵の一部、座間町相模台の大部分※1960年6月19日当時。
  75. ^ 旧相模原電報電話局、後の橋本分局。市外局番027・市内局番7 引用元:『相模原津久井・町田の電信電話史』48頁。日本電信電話公社関東電気通信局『関東電信電話百年史. 上』(1968.03)”. 渋沢社史データベース. 2023年10月7日閲覧。
  76. ^ 市外局番0274市内局番なし 引用元:『相模原津久井・町田の電信電話史』43頁。日本電信電話公社関東電気通信局『関東電信電話百年史. 上』(1968.03)”. 渋沢社史データベース. 2023年10月7日閲覧。
  77. ^ 以下引用元:『相模原津久井・町田の電信電話史』51頁。1961年11月5日の全国ダイヤル自動即時化まで、市外局番:東京23区03、川崎04、日吉046、中原047、溝ノ口048、登戸049、横浜05、藤沢066、武蔵野三鷹022、武蔵府中0236、調布024、立川025、八王子026、青梅028,町田0274相模原(旧相模原電報電話局、後の橋本分局)027、川口082、浦和086、市川073、松戸0739、船橋074、千葉072、野田0712、柏0716、大阪06。名古屋は交換手扱い。
  78. ^ 経済復興にともない加入申し込みは増加する一方で、電話の架設が追いつかない状況、すなわち〈積滞〉が深刻化していた。この時町田局管内は1000回線を超え、小田急相模原駅周辺には既に1000番台が割り当てられており新たに4000番台が、原町田区域・相模大野駅周辺区域には2000番台・3000番台が割り当てられた。市外局番設定0274、市内局番なし 小田急相模原駅周辺・例①旧表記・町田1xxx番→新表記・0274-1xxx、例②旧表記・町田xxx番→新表記・0274-4xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶旧表記・町田xx番→新表記・0274-20xx、例❷旧表記・町田xxx番→新表記・0274-2xxx、例❸旧表記・町田xxx番→新表記・0274-3xxx。引用元:復興と成長の時代(1950年代から)”. NTT技術史料館. 2024年9月8日閲覧。『相模原津久井・町田の電信電話史』43頁
  79. ^ 1961年11月5日、全国ダイヤル自動即時化に際し、都内除く南関東地区に04が当てられた<日本における市外局番の変更日本電信電話公社関東電気通信局『関東電信電話百年史. 上』(1968.03)”. 渋沢社史データベース. 2023年10月7日閲覧。>。以下引用元:『相模原津久井・町田の電信電話史』51頁 川崎044、日吉0446(1966年7月10日044-61に変更→1990年10月1日、現行の045-561に変更)、中原0447(1966年12月4日044-72に変更)、溝ノ口0448(1964年10月25日044-82)に変更、登戸0449(1963年12月8日044-91に変更。1965年12月12日柿生交換局は自動即時化044-98、1965年11月26日登戸局百合丘分局開設、自動即時化044-96)、横浜045、戸塚04692(手動即時、1962年3月11日自動即時化045-88に変更)、武蔵野三鷹0422、田無0421、武蔵府中04236、調布0424、八王子0426、青梅0428、町田04274、相模原(後の橋本分局)0427、小田原0465、国府津04650(※1963年10月1日、0465-47に変更)、箱根0460、湯河原04606、厚木0462(※1963年12月5日ダイヤル自動即時化)、大和0462(※1964年2月23日ダイヤル自動即時化)、煤ヶ谷046288(手動即時)、藤沢0466、鎌倉0467、茅ケ崎04670、横須賀0468、三浦04688、逗子04693、大磯・二宮・秦野0463、西秦野0463-01、平塚0463(※1964年5月31日ダイヤル自動即時化)、川口0482、浦和0486、越谷0489、市川0473、松戸04739、船橋0474、千葉0472、野田04712、柏04716、名古屋052、大阪06となった。
  80. ^ 以下引用元:『相模原津久井・町田の電信電話史』50頁   小田急相模原駅周辺・例①04274-4xxx、例②04274-1xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶04274-20xx、例❷04274-2xxx、例❸04274-3xxx。
  81. ^ 以下引用元:『相模原津久井・町田の電信電話史』57頁 特殊番号(非自動化地域への通話)103・108(受話器を取り103ないし108をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、電話を切らずに待つ・手動即時通話)、106(受話器を取り106をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、一旦電話を切って待つ・手動待機通話)
  82. ^ 例①旧表記04274-4xxx→新表記0427-22-4xxx、例②例旧表記04274-1xxx→新表記・0427-22-1xxx、例③旧表記04274-20xx→新表記0427-22-20xx、例④旧表記04274-2xxx→新表記0427-22-2xxx、例⑤旧表記04274-3xxx→新表記0427-22-3xxx。
  83. ^ 以下引用元:『相模原津久井・町田の電信電話史』50頁 相模原市の町田局管内を除く、旧・相模原局(後の橋本分局・市外局番0427)外、各手動式交換局を統合した新・相模原電報電話局開局につき市内局番設定(52<中央、相模原、清兵衛新田、淵野辺、矢部、上溝・大沼の一部>・62<上溝、田名、大島>・72<橋本、相原、下九沢、上九沢>・78<当麻、下溝>)。同時に町田局市外局番04274を相模原局と同じ0427に変更、市内局番22を設定。相模原局‐町田局間、準市内扱いで単一料金にて通話可能となる。※1964年1月30日当時。
  84. ^ 引用元:『相模原津久井・町田の電信電話史』52頁
  85. ^ 例①0427-22-4xxx→0427-44-4xxx、例②0427-22-1xxx→0427-44-1xxx、例③0427-22-20xx→0427-42-20xx、例④0427-22-2xxx→0427-42-2xxx、例⑤0427-22-3xxx→0427-42-3xxx ※1969年2月当時。
  86. ^ 座間町(相模台の町田電報電話局管内・栗原の厚木電報電話局管内を除く)、相模原市新戸全域、磯部新磯野の大部分。同時に、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。※1965年5月30日当時 引用元:『相模原津久井・町田の電信電話史』56頁・139頁
  87. ^ 日本電信電話公社関東電気通信局『関東電信電話百年史. 上』(1968.03)”. 渋沢社史データベース. 2023年10月7日閲覧。
  88. ^ 例①旧表記・座間xx番→新表記・0462-51-00xx、例②旧表記・座間xxx番→新表記・0462-51-0xxx、例③旧表記・座間1xxx番→新表記・0462-51-1xxx。座間広報第82号 昭和40年5月20日発行3頁
  89. ^ 座間広報第94号・昭和41年5月5日号 1頁。相模野小学校創立五十周年記念誌 70頁。
  90. ^ 座間広報第98号 昭和41年10月1日発行1頁
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  92. ^ 誰が望んだのか??再開発その歴史的経緯と、謎の官民コンサルタント主導の「街壊し」”. さがみパらねっと. 2018年11月19日閲覧。
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