相模が丘
相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市の町名。現行行政地名は、相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域。 地理神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1950年代までにほぼ全域が宅地市街化している。元の開墾農地の地割を反映し、街路網自体は直線的である。 町名の紆余曲折当区域は元々相模野・座間野・芝原(しばあら)と呼ばれる原野の一部であり、周辺農村の入会地とされていた。それまで人が誰も住んでおらず、江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった[注釈 1]。 江戸末期の嘉永6年(1853年)[7]にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村、新戸村、座間村北広野、新田宿村飛地見分塚の各村が境界を接する区域となり、やがて1889年の明治の大合併により高座郡大野村大字上鶴間<現・相模原市南区南台>、新磯村大字新戸・大字磯部[8]<現・相模原市南区相模台>、座間村大字座間字北広野・大字新田宿飛地字見分塚<現・座間市相模が丘>となった。 旧地籍は高座郡座間町大字座間字北広野・字中広野の各小字全域と・字南広野・字元広野・字元広野窪の座間街道以北(現・相模が丘一丁目〜四丁目)、辰街道[9]を境界に大字新田宿飛地字見分塚の大部分(現・相模が丘五丁目)、江戸街道[10]を境に同飛地字見分塚の残り部分と字新畑全域・大字四ツ谷飛地字二ツ塚の座間街道以北(現・相模が丘六丁目)の各大字小字・飛地である[11]。 終戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間字北広野、大字新田宿飛地をはじめとした相模が丘の宅地化が進行し、救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)[12]、1959年4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した[13][14][15]。 相模原市は1969年7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目を編成し、翌1970年7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町丁が編成されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台が隣接して併存することとなった。 1971年11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れて1981年6月1日に大字相模台地区で住居表示を実施した際[16][17]、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために町名を相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目とした。 歴史の時系列と詳細この地は既に1880年、高座郡座間村字北広野(相模が丘一丁目)、新田宿村飛地字見分塚(相模が丘五丁目)、上鶴間村(相模原市南区南台五丁目)、新戸村(相模原市南区相模台二丁目)、各村の境界域(小田急相模原駅北口付近)[18]に中和田新開[19]が開墾され、上鶴間村分には人が住み着いて耕作していたが、1894年になって中和田新開の座間分に座間中宿出身者1人が居を構え入植に加わる[20]。 1919年には14戸にまでなった中和田新開は府中道(行幸道路旧道)と辰街道[21]の交差する未開地の中に小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の原点となった。 1937年9月30日、市ヶ谷より陸軍士官学校がキャンプ座間の地に移転すると、1938年から高座郡大野村に、臨時東京第三陸軍病院、陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・麻布大学ほか)が開設され、当時陸軍は小田原線沿いの大野村上鶴間(現・相模原市南区相模大野・旭町・豊町・栄町・南台ほか)、小田急相模原駅近辺の新磯村新戸(現・相模原市南区相模台)磯部(現・相模原市南区相模台・相模台団地・桜台)、座間町新田宿飛地見分塚・座間字北広野・座間字中広野(現・座間市相模が丘)までの地域を原町田の一部としてまとめて扱うことが多く、電話が町田電報電話局管内(現・相模原MA)であるのはその名残である。 →「陸軍通信学校 § 原町田との合併問題」も参照
新田宿飛地(相模が丘五丁目・六丁目)の所有者は、他の地域同様、江戸時代末期文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成したが[28]、本村から遠く、通いでの耕作は大変であったので畑に植林して松林とした[29]。小田急線が開通して4年後、1931年に長野県から移住した人[30]を皮切りに、1937年から1943年にかけて、新田宿飛地見分塚(相模が丘五丁目)に本格的に人が住み着いた。東京市三河島から陸軍関係施設の建設に従事した人[31]、神田の青果問屋の番頭だった人[31]、練馬の大地主で漬物屋だった人は陸軍に土地を買収されたため相模が丘に移ってきた[31]。東林間水道新開から移住した人、様々な理由・所縁で相模が丘に移住して来た[32]。皆、昭和十八年までにこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った[33]。戦時中、高座郡旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅一帯を相模台と呼んでいた[34]。 戦前・戦中・戦後にかけて、相模が丘・広野台は幸い軍用地の買収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた[35]。 この地は地下の水脈が約25mと深く、その上関東ローム層という火山灰土の不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので主に桑園として利用され、麦・陸稲・甘藷・大根なども栽培した[36][37]。戦後の1949年に県営相模原畑地灌漑事業が着工され、1953年、畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始したが、相模が丘の元の大字である座間と新田宿は灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった[38]。1955年に町営水道が完成、1958年には相模が丘六丁目に小田急住宅が開発分譲され[39]、市街地化。畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え1970年3月に通水を終了した[40]。 年表
世帯数と人口2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[105]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[106]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
交通鉄道町内に鉄道駅はない。 バス
道路施設
その他日本郵便脚注
|