南台(みなみだい)は、神奈川県相模原市南区の町名。現行行政地名は南台一丁目から六丁目。住居表示実施済区域[5]。
地理
相模原市南区の南部に位置し、南西に相模台、北西に上鶴間、北東に旭町、南東に東林間、南に座間市相模が丘と接している[6][7]。
地価
住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、南台二丁目2-6の地点で19万9000円/m2となっている[8]。
歴史
当区域は元々「相模野」・「相模原」と呼ばれる原野の一部であり、周辺農村の秣場とされていた。それまで人が誰も住んでおらず江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。
江戸末期の嘉永6年(1853年)[注釈 1]にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村、新戸村、座間宿村[注釈 2]北広野、新田宿村飛び地の各村が境界を接する区域となった。
それらの村はやがて1889年の明治の大合併により同郡新磯村大字新戸・大字磯部[注釈 3](相模原市南区相模台)、座間村大字座間字北広野・大字新田宿飛び地字見分塚(座間市相模が丘)、この南台は高座郡大野村大字上鶴間となった。
1875年[9]この地の将来性に着目した高座郡綾瀬村蓼川の平出富士太郎という、豪商(醤油製造業)・豪農(田畑百町歩)の長男で農業の多角経営者が私財を投じて、大和市福田の保田善兵衛所有の小田急相模原駅の周りと駅の北側一帯、座間村域の北広野の一部を含む[注釈 4]この地、約二十町歩[注釈 5]を購入し、当時の座間村の人々に開拓を勧め呼びかけた。その後、その熱い呼びかけに応えて座間河原宿在住の鈴木孫七[注釈 6]以下7名[注釈 7]が開拓に加わった。まだ一面の萱(かや)が生い茂る不毛の原野で秣場であった南台に、初めて人の手が入ったのは1877年であり、原野の開拓が進められた[注釈 8]。元々この地には府中道(行幸道路)という、厚木から当時の武蔵の国、国府が置かれていた府中に通じる古街道が通っており、開拓はこの街道に沿って行われた。開拓者たちは座間から毎日鍬を担ぎ弁当持参のわらじ履きで通っていた。そのうち1880年12月、新開の中にようやく一戸の家を建てて全員で住み着いた[注釈 9]。この時からこの地は中和田新開または蓼川新開と呼ばれるようになった[10][注釈 10][注釈 11]。屋敷内には祠と鳥居を建立し、伏見稲荷大社から主祭神正一位伏見稲荷大明神神璽(おみたま)の勧請を受け祠に御鎮座。「屋敷稲荷」をお祀りし、先人たちは家業の繁栄と家内安全を願い、毎年2月最初の午の日「初午」には、近所の人々が御馳走を持って集まり、子供たちにはお菓子が配られ楽しいひと時を過ごす『稲荷講』が開かれた。道祖神[注釈 12]は、中和田新開が開かれた頃、西側のサウザンロード相模台(国立病院通り)沿いに建てられていたが、当初の碑は盗難に遭い南台五丁目行幸道路脇に新設され[注釈 13]、「屋敷稲荷」と共に開墾から150年近く経った今も大切に祀られて地域の発展を見守っている[注釈 14]。
萱や茨の生い茂ったこの土地の開墾は、「あげうね」といって、萱や雑木の切株に土を被せてその腐るのを待つ方式で、平らな畑地になるまで数年費やした。当初の作物は、粟・菜類・甘藷・きび・蕎麦や唐辛子等で陸稲はほとんどとれず、そのため、萱刈り(屋根葺きの材料)や炭焼きなどの農間余業に精を出し、夜はランプの光のもとでたいてい藁仕事であった[注釈 15]。
水は当初の3年は篠原新開[注釈 16]の篠原家の貰い水で、400~500メートルも離れた井戸から桶を担いでの作業に苦心し、中和田新開に平出富士太郎翁の計画に基づいて土地の状況をみて、村人皆で力を合わせ30メートルの深い井戸を掘りようやく1883年に3つ掘りあげ風呂は共同だった[注釈 17]。
その後、1894年になって新開の座間分北広野に座間中宿出身者1人が居を構え入植に加わる。1901年には開拓者たちは次々と府中道(現・南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加わり、新開地は一つの集落として活気をおびて来た[注釈 18]。
1919年3月15日、新開四十年記念碑[注釈 19]建立時の頃には14戸にまでなって、府中道と辰街道[注釈 20]の交差する座間分を含めた未開地のなかに小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の「原点」となった[注釈 21]。
1927年4月1日には小田原急行鉄道小田原線が開通したが、新原町田駅~座間駅(現・相武台前駅)間には駅がなく中和田新開を通過するだけであった。
1928年3月31日には新開に電灯が点いた[注釈 22]。
1937年9月30日に、市ヶ谷より陸軍士官学校が現キャンプ座間の地に移転してくると、翌1938年から、高座郡大野村に臨時東京第三陸軍病院、陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・麻布大学ほか)が開設され、当時陸軍は小田原線・江ノ島線沿いの大野村上鶴間(現・相模原市南区上鶴間・相模大野・東林間・旭町・豊町・栄町・南台ほか)、小田急相模原駅近辺の新磯村新戸(現・相模原市南区相模台)磯部(現・相模原市南区相模台・相模台団地・桜台)、座間町新田宿飛地見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)・座間字北広野・座間字中広野(現・座間市相模が丘一丁目~三丁目)までの地域を原町田の一部としてまとめて扱うことが多く、電話が町田電報電話局管内(現・相模原MA[注釈 23])であるのはその名残である[注釈 24]。
大きな転換点となったのは、前述のとおり臨時東京第三陸軍病院の進出である[注釈 25][11][注釈 26]。1938年3月1日の開院に合わせ、小田原急行鉄道が、に中和田新開を通過していた小田原線上の座間町と大野村との境界に相模原駅[12][13][注釈 27][注釈 28]を開業し、後に同駅と同病院を結ぶ街路[注釈 29]周辺が市街化する契機となった。同年6月1日には小田原急行鉄道がバス事業営業開始・相模原駅(小田急相模原駅)⇔陸軍第三病院(国立病院機構相模原病院)間[14]。
1941年4月29日、大野村は、座間町、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口48,482人[15]の高座郡相模原町が誕生したが、1948年9月1日に、旧座間町域(座間市域)が相模原町から分離独立した。相模原町は残りの区域で、1954年11月20日に市制施行して人口約8万人[16]の相模原市が発足した。
計画年度は不詳だが、南台五丁目(旭ヶ丘自治会地区)に陸軍士官学校等に関係する下士官用住宅を山林の一部を伐り開いて建て始められた。1945年8月の敗戦により用途目的が無くなり中断。しかし、間もなく住宅営団と言う半官半民の組織が、戦災者と引揚者用として建設を進め、同型の住宅が三列に並んで65軒が同年末に完成、入居希望者は抽選で決められた。建物の様子は終戦後の物資の無い時で、屋根は石板葺き、内壁はボール紙という粗末な家だった。水は、一か所の井戸~深さ約20メートル~を四、五軒で使った。当初は「営団」と呼ばれていたが住宅営団が数年後に解散し、各自に買取りが求められた頃から「旭ヶ丘」と呼び名を変えた[注釈 30]。
戦争が終わり、中和田新開の古老たちは戦後の荒廃した人心のよりどころにと神社の建立を考えた[注釈 31]。境内予定地は行幸道路に面した松林で、新開に関係した平塚在住の所有者から快く用地を譲渡され、1947年4月22日、二宮神社を現在地に建立し、翌4月23日、小田原市の報徳二宮神社から主祭神御分霊の勧請を受け本殿に御鎮座[注釈 32][注釈 33]。
同じく敗戦後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 34]。その政策に基づき農業集落として、南台は「中和田新開」・「鶴ケ丘」とされた[注釈 35][17]。
小田急相模原駅周辺の市街地化と並行して、1958年には日本住宅公団鶴ケ丘団地竣工など更なる住民の増加、産業の発達が見込まれ、電話設備の拡充・電話交換自動化要望の高まりを見せ、当該地域を管轄する町田電報電話局は、局舎を新設し自動交換機を設置した。
ぶどう園
1933年12月、横浜市保土ケ谷区で葡萄酒製造をしていた中垣秀雄(秀賢)は事業の拡張を計画、中和田新開の7町歩(約7ヘクタール。南台三丁目より鶴ケ丘団地を含め、国立病院通りに至る細長い土地)を購入し、葡萄園の経営を始めた[注釈 48]。1935年4月、社屋と従業員の家も建ち、葡萄酒の製造が始まった。『皇國葡萄酒』と名付け、宮内省御用達になり、東京のデパート三越には国産はこの葡萄酒しか無かったとも言われた。その後、行幸道路で葡萄園は分断され、数年後には陸軍電信第一連隊の正門を東側にとの軍の命令で、現・ハウス通りが造られ、また分断された。終戦後は、経営の拡張を願い、従業員共々、麻溝台の払下げ地である練兵場開墾に励み大陸から引き揚げて来た開拓団の面倒も見た[注釈 49]。しかし『農地改革』により、個人の所有地は2町歩までとなり開墾を中止。1955年頃には事業を一切止めてしまった。名残りは、1999年4月まで『ぶどう園前』バス停があったが『鶴ケ丘』バス停と名前が変わってしまった[注釈 50][注釈 51]
世帯数と人口
2020年(令和2年)10月1日現在(国勢調査)の世帯数と人口(総務省調べ)は以下の通りである[1]。
丁目 |
世帯数 |
人口
|
南台一丁目
|
786世帯
|
1,550人
|
南台二丁目
|
1,117世帯
|
2,220人
|
南台三丁目
|
1,373世帯
|
2,533人
|
南台四丁目
|
964世帯
|
1,807人
|
南台五丁目
|
2,173世帯
|
3,853人
|
南台六丁目
|
562世帯
|
1,095人
|
計
|
6,975世帯
|
13,058人
|
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年5月時点)[28]。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[29]。
丁目 |
事業所数 |
従業員数
|
南台一丁目
|
25事業所
|
137人
|
南台二丁目
|
15事業所
|
182人
|
南台三丁目
|
80事業所
|
1,024人
|
南台四丁目
|
31事業所
|
165人
|
南台五丁目
|
131事業所
|
930人
|
南台六丁目
|
63事業所
|
310人
|
計
|
345事業所
|
2,748人
|
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
交通
鉄道
道路
施設
その他
日本郵便
参考文献
- 『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行
- 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著
- 『相模原津久井・町田の電信電話史』相武電鉄上溝浅間森車庫付属資料館 平成31年3月10日発行
脚注
注釈
- ^ この年から座間市域の芝原(しばあら)と呼ばれた小田急相模原駅周辺の相模が丘から広野台・小松原にかけて開墾がはじまり、文久年間には地割が完成し耕作が始まった。『座間むかしむかし第1集』18頁芝原の開墾、『座間むかしむかし第3集』17頁~19頁・相模台の昔、『座間むかしむかし第3集』巻末 座間市略年表
- ^ 座間宿村は1868年に座間村になった。『座間の地名』18頁
- ^ 当該地域は1951年1月に統合され大字新磯野が起立した。
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)
- ^ 約20ヘクタール
- ^ 平出富士太郎義弟にあたる。『座間の地名』20頁①中和田新開
- ^ 鈴木孫七ほか協力者、座間出身5人・四ツ谷出身1人・海老名上郷出身1人。計7名。7名の協力者達は1884年春に移住した。引用元:『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』59頁・60頁、『座間の地名』20頁①中和田新開
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 17頁~20頁◇中和田新開(蓼川新開)
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)
- ^ 座間分の本村である座間村や座間入谷村、新田宿村、四ツ谷村、栗原村の人々は「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集』4頁・字名の起こり。
- ^ 1884年には芝野(麻溝台)に下溝の吉野幸太郎が下溝新開を開墾し四戸での生活がしばらく続いたが、1936年に新開が陸軍練兵場に接収され、仕方なく本村の下溝に帰った。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 24頁◇下溝新開
- ^ 古くから集落の入り口あたりに祀られ、集落に入る疫病や災いを防ぎ、地域の安全等を守るものとされている。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 22頁・23頁◇道祖神と稲荷
- ^ 建立昭和二年の銘がある。
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 22頁・23頁◇道祖神と稲荷
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)
- ^ 明治10年、中和田新開と同時期に篠原直太郎が上鶴間米軍ハウス正門を入った付近約二十町歩を上鶴間谷口の渋谷彦兵衛より買い受け、住居を構え開墾を始めた。開墾にあたり大部分は篠原直太郎夫婦で行い、大正末期までには2戸の入植者があった。1937年、開拓地全部が軍用地<陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)>として買収され、篠原家は相模大野駅に近くに、他の2軒の入植者も他所に転居した。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 16頁◇篠原新開、『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 35頁◇陸軍通信第一連隊の転営
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 17頁・19頁◇中和田新開(蓼川新開)、『座間の地名』20頁①中和田新開
- ^ 1901年は入植者が新たに6軒加わった。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)、『座間の地名』20頁①中和田新開
- ^ 移住した1880年を開拓初年としている。二宮神社境内にあり。『座間の地名20頁①中和田新開』
- ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近→相模原市役所本庁の近所→弥栄→相模原ゴルフクラブの中→麻溝台一等三角点の傍→国立病院機構相模原病院の敷地内→国立病院通り→小田急相模原駅の南側→相模が丘・小松原→大和市上草柳を通って藤沢市に至る街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)向かっているからとも、また慶安3年の中和田村と座間村との境争論の絵図(『相模原市史第2巻』 慶安3年(1650年)8月25日付 中和田・座間秣場争い裁許の図)にも描かれてるように、相模川流域の村々と境川(高座川・たかくらがわ)流域の村々との領分を二つに分ける境界として、相模野台地の真ん中を「断ち割る」ようにして走る道だからとも言われている。明治期の篠原新開や中和田新開、下溝新開などの開墾入植は、すべてこの道路沿いで行われている。国立病院機構相模原病院より以北は、陸軍演習場の開設により、道筋の痕跡はなくなっているが、昭和11年までは地域の人々にとって重要な道路であった。引用元:『麻溝台地区の生い立ち』10頁・11頁 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会、『座間の地名』15頁・16頁
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 20頁◇大正から昭和にかけて
- ^ NTT東日本-南関東 東京事業部 東京西支店の管轄
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 31頁◇軍都計画
- ^ 高座郡大野村上鶴間と新磯村磯部字大野に跨っている。昭和4年刊行『土地宝典』高座郡新磯村地番反別入図。 『座間広報』20号昭和26年3月10日発行2頁に「国立相模原病院 所在地・相模原町上鶴間4719番地」と記載。
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 33頁◇臨時東京第三陸軍病院)
- ^ もう一つには、同じく病院前駅として開業、翌昭和14年3月14日、臨時東京第三陸軍病院天皇陛下行幸につき相模原駅と改称という記述あり。引用元:原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、80頁。
- ^ 1941年3月1日小田原急行鉄道は小田急電鉄と改称、同年4月5日に小田急相模原駅と改称。
- ^ 古来からの辰街道。現・サウザンロード相模台(旧・国立病院通り)。往時は高座郡座間村座間字北広野・新田宿飛地字見分塚<現・座間市相模が丘一丁目>、大野村上鶴間<現・相模原市南区南台五丁目>と新磯村新戸・磯部<現・相模原市南区相模台二丁目>の境界となっていた。
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 42頁◇集合住宅の誕生~旭ヶ丘
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 43頁◇二宮神社の建立
- ^ 当初、鎌倉鶴岡八幡宮など古来の神社から御分霊の勧請を受けようと奔走尽力したが八幡神などの神々は軍神・武神であるためGHQより差し止められた。昭和初期から農村地帯では農村振興の偉人~二宮尊徳翁を崇敬する気風が盛んとなり、各地に報徳会が組織されていた。この事から小田原市の報徳二宮神社にお願いし二宮尊徳翁御分霊を勧請。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 43頁◇二宮神社の建立
- ^ この地域は新開地で神社がなく、それまで祭りは4キロも離れた本村の中和田にある長嶋神社で行われて、子供や女性は簡単に参加できない状況だった。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 43頁◇二宮神社の建立
- ^ 『麻溝台地区の生い立ち』83頁 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会
- ^ ここで言う「帰農」は、戦後軍属を解かれ退役した軍人や陸軍士官学校の陸士生、外地からの引揚者が開墾した耕地のこと。
- ^ 町田市(柿生交換局管内の三輪町を除く)、相模原市上鶴間・麻溝台・鵜野森全域、大沼の大部分、磯部・新磯野・古淵の一部、座間町相模台の大部分※1960年6月19日当時。
- ^ 旧相模原電報電話局、後の橋本分局。市外局番027・市内局番7 『相模原津久井・町田の電信電話史』48頁。
- ^ 市外局番0274市内局番なし 『相模原津久井・町田の電信電話史』43頁。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』51頁。1961年11月5日の全国ダイヤル自動即時化まで、市外局番:東京23区03、川崎04、日吉046、中原047、溝ノ口048、登戸049、横浜05、藤沢066、武蔵野三鷹022、武蔵府中0236、調布024、立川025、八王子026、青梅028,町田0274、相模原(旧相模原電報電話局、後の橋本分局)027、川口082、浦和086、市川073、松戸0739、船橋074、千葉072、野田0712、柏0716、大阪06。名古屋は交換手扱い。
- ^ 経済復興にともない加入申し込みは増加する一方で、電話の架設が追いつかない状況、すなわち〈積滞〉が深刻化していた。この時町田局管内は1000回線を超え、小田急相模原駅周辺には既に1000番台が割り当てられており新たに4000番台が、原町田区域・相模大野駅周辺区域には2000番台・3000番台が割り当てられた。市外局番設定0274、市内局番なし 小田急相模原駅周辺・例①旧表記・町田1xxx番→新表記・0274-1xxx、例②旧表記・町田xxx番→新表記・0274-4xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶旧表記・町田xx番→新表記・0274-20xx、例❷旧表記・町田xxx番→新表記・0274-2xxx、例❸旧表記・町田xxx番→新表記・0274-3xxx。『相模原津久井・町田の電信電話史』43頁
- ^ 1961年11月5日、全国ダイヤル自動即時化に際し、都内除く南関東地区に04が当てられた<日本における市外局番の変更>。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』51頁 川崎044、日吉0446(1966年7月10日044-61に変更→1990年10月1日、現行の045-561に変更)、中原0447(1966年12月4日044-72に変更)、溝ノ口0448(1964年10月25日044-82)に変更、登戸0449(1963年12月8日044-91に変更。1965年12月12日柿生交換局は自動即時化044-98、1965年11月26日登戸局百合丘分局開設、自動即時化044-96)、横浜045、戸塚04692(手動即時、1962年3月11日自動即時化045-88に変更)、武蔵野三鷹0422、田無0421、武蔵府中04236、調布0424、八王子0426、青梅0428、町田04274、相模原(後の橋本分局)0427、小田原0465、国府津04650(※1963年10月1日、0465-47に変更)、箱根0460、湯河原04606、厚木0462(※1963年12月5日ダイヤル自動即時化)、大和0462(※1964年2月23日ダイヤル自動即時化)、煤ヶ谷046288(手動即時)、藤沢0466、鎌倉0467、茅ケ崎04670、横須賀0468、三浦04688、逗子04693、大磯・二宮・秦野0463、西秦野0463-01、平塚0463(※1964年5月31日ダイヤル自動即時化)、川口0482、浦和0486、越谷0489、市川0473、松戸04739、船橋0474、千葉0472、野田04712、柏04716、名古屋052、大阪06となった。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』50頁 小田急相模原駅周辺・例①04274-4xxx、例②04274-1xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶04274-20xx、例❷04274-2xxx、例❸04274-3xxx。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』57頁 特殊番号(非自動化地域への通話)103・108(受話器を取り103ないし108をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、電話を切らずに待つ・手動即時通話)、106(受話器を取り106をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、一旦電話を切って待つ・手動待機通話)
- ^ 例①旧表記04274-4xxx→新表記0427-22-4xxx、例②例旧表記04274-1xxx→新表記・0427-22-1xxx、例③旧表記04274-20xx→新表記0427-22-20xx、例④旧表記04274-2xxx→新表記0427-22-2xxx、例⑤旧表記04274-3xxx→新表記0427-22-3xxx。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』50頁 相模原市の町田局管内を除く、旧・相模原局(後の橋本分局・市外局番0427)外、各手動式交換局を統合した新・相模原電報電話局開局につき市内局番設定(52<中央、相模原、清兵衛新田、淵野辺、矢部、上溝・大沼の一部>・62<上溝、田名、大島>・72<橋本、相原、下九沢、上九沢>・78<当麻、下溝>)。同時に町田局市外局番04274を相模原局と同じ0427に変更、市内局番22を設定。相模原局‐町田局間、準市内扱いで単一料金にて通話可能となる。※1964年1月30日当時。
- ^ 例①0427-22-4xxx→0427-44-4xxx、例②0427-22-1xxx→0427-44-1xxx、例③0427-22-20xx→0427-42-20xx、例④0427-22-2xxx→0427-42-2xxx、例⑤0427-22-3xxx→0427-42-3xxx ※1969年2月当時。
- ^ 事業所所在地は高座郡大野村上鶴間字谷口。引用元:『横浜市史Ⅱ資料編2地方小作官と農村情勢』横浜市総務局市史編集室/編 横浜市1990.3
発行p.550に神奈川県地方小作官であった小塙英太郎の日記(昭和10年7月14日付)
- ^ ここで言う開拓団は麻溝台開拓農業協同組合のことで特に旧満洲(中国東北部)からの引揚者多かった。麻溝台には他に「一青会」「振興青年」「溝上」「豊原」「双葉」の開拓農業協同組合があった。『郷土史としての相武台陸軍士官学校』 涌田佑/著 平成18年11月1日発行●六章:米軍接収と練兵場開拓ー麻溝台開拓農業協同組合ー84頁
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 30頁◇ぶどう園の進出』
- ^ 『麻溝台地区の生い立ち』発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会72頁~77頁
出典
関連項目
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