原町田
原町田(はらまちだ)は、東京都町田市の地名。現行行政地名は原町田一丁目から六丁目(住居表示区域)。郵便番号は194-0013[3]。 地理ターミナル駅である町田駅が所在し、駅周辺は町田市の中心市街地にあたる。町田駅も1908年に横浜鉄道(現在のJR横浜線)の駅として開業した当時は原町田駅という名称であった。ペデストリアンデッキ(歩行者専用通路)が小田急とJRの駅と、マルイ・ルミネ・町田東急ツインズなどの駅前の大型商業施設を結んでおり、乗り換え客などで人通りが多い。南多摩・相模(武相)においては、立川駅や八王子駅周辺などと並ぶ地域最大級の繁華街である。 東は高ヶ坂、南は金森、金森東、北は森野、中町、南大谷、西は神奈川県相模原市南区上鶴間本町と接している。 西端をJR横浜線が通り、小田急小田原線が北端を通っている。周辺道路はいずれも交通量が非常に多いため、渋滞が発生しやすい。 河川
地価住宅地の地価は、2014年1月1日の公示地価によれば、原町田3-14-8の地点で27万7000円/m2となっている。[5] 歴史室町幕府の成立初期に琵琶湖に定住していた土方氏・夏目氏・山村氏(三橋一族)は主君である足利基氏が鎌倉に下向した際に従い関東に入った。三橋一族は関東で争乱が相次いだため鎌倉から大石氏の八王子城、滝山城、沢山城と遷っていった。その後三橋新右衛門が北条氏照に永世帰農を請願、認可される。三橋一族は原野を開墾したのではないかとされている[6]。 鎌倉時代頃より鎌倉街道が通っていたが、江戸時代半ば頃までは鎌倉時代に宿の置かれた本町田が中心で、この地域は農地や原野が広がっていた。江戸時代後期頃、八王子から横浜へ生糸を運ぶための絹の道や、東海道・大山街道の脇往還がこの地を通り物資の中継地となったため、次第に生糸取引や宿場として栄えるようになり、製糸・織物・乾物を中心とした商業も盛んに行われた。昭和に入ると、近隣地域に原町田陸軍病院・原町田陸軍通信学校・原町田陸軍兵器学校(いずれも原町田と冠しているが所在地は相模原市)や陸軍士官学校(座間市)が移転し、1942年に綾瀬市と大和市にまたがる厚木飛行場が完成すると、軍人や軍属の住民が周辺地域に増加し、原町田周辺がより発展することとなった。第二次世界大戦時は陸軍関係の学校や病院は相模大野周辺に多かったものの、軍需工場が少なかったためか空襲の被害は少なかった。 地名の由来町田村(現在の本町田)の近隣の原野を開拓した村であったことから。 沿革
六齋市1583年(天正11年)前後に原町田村が町田村から分村した後、六齋市開催の権利を得たとして市を開いたが、それまで市を開催していた本町田村(旧来の町田村)側も権利を主張し市開催を1584年(天正12年)前後から再び行なうようになった。両村は互いに譲らず紛糾し訴訟にまで発展、1587年(天正15年)後北条氏が裁定し三斎市をお互いに開催することとなった。この市は明治時代に入ると六齋市に戻り、以後は絹の道の中継地となっていた原町田で行われるようになった。通称、「二六の市」と呼ばれ月6回開かれていた。 1767年(明和4年)の「原町田村絵図」には市が開かれると浄運寺から勝楽寺門前(約500メートル)に店が並んでいたとされている。 治安・風紀の維持2012年、東京都は原町田一丁目、四丁目および六丁目を都迷惑防止条例に基づき、客引きやスカウトのみならず、それらを行うために待機する行為なども禁止する区域に指定した[9]。 さらに2019年には同じく原町田一丁目、四丁目および六丁目を暴力団排除条例に基づき、暴力団排除特別強化地域に指定[10]。地域内では暴力団と飲食店等との間で、みかじめ料のやりとりや便宜供与などが禁止され、違反者は支払った側であっても懲役1年以下または罰金50万円以下の罰則が科される[11]。 2023年5月26日、原町田の喫茶店内で山口組系暴力団員の男性が拳銃で撃たれて死亡。翌日、回転式拳銃を所持した男が神奈川県警察伊勢原警察署に出頭。銃刀法違反で逮捕され、町田警察署に移送された[12][13]。 世帯数と人口2018年(平成30年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[14]。
交通鉄道バス→「町田バスセンター」を参照
主に神奈川中央交通により運行されている。小田急線・JR横浜線町田駅最寄の停留所は町田バスセンターである。 道路・橋梁
施設町田駅周辺部の詳細については →「町田駅 § 駅周辺」も参照
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク |
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