ひばりが丘(ひばりがおか)は、神奈川県座間市の町名。現行行政地名はひばりが丘一丁目からひばりが丘五丁目。住居表示実施済み区域[注釈 1]。
地理
座間市東部に位置し、大和市と隣接する[5]。
地価
住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、ひばりが丘一丁目18番13号の地点で16万円/m2となっている[6]。
歴史
この地域は、古くは座間野の内、座間入谷村と栗原村の入会地であった[7]。ひばりが丘三丁目・四丁目の旧・大字栗原字東原と大和市・海老名市を境界として、古道である大山道が縦貫している。
1945年12月子息が座間の寺院で学童疎開をしていた横須賀市内の人[8]、1946年7月藤沢市本鵠沼に住んでいた人[9]、群馬県の赤城山麓で飛行機関係の仕事をしていた人[10]、近隣の大和市の出生で畑がこの地にあった人[11]など、戦後の混乱の中、様々な理由・所縁[12]で移住してきた住人達が中心となって街づくりを始めた地である[注釈 2]。それらの人々は栗原字東原(現・二丁目〜四丁目全域と五丁目の大部分)と大字座間入谷飛地(現・一丁目全域と五丁目の残り全域)にまたがり移住してきた。大字小字はまたがっていたが一括りに早速、新しい自治会[13]を結成し名前を決めようと、役員が当時林であったところで会議をしている時、ヒバリが多かったことから「雲雀ヶ丘」となり、小学校開設時に小学生にも分かりやすいように平仮名としたもの[14][注釈 3]。
移住当初、原野を開墾し耕地にする際、相模が丘・小松原同様、関東ローム層と言う火山灰土の不毛な土壌、その上、地下の水脈が、隣接する小松原は約25mであったが、ひばりが丘三丁目などは約56m[15]と非常に深く、井戸を掘削するにも苦労した。1953年、畑地灌漑用水路西幹線[注釈 4]が通水し耕作も軌道に乗り、桑と麦、陸稲を栽培した。1955年、町営水道が給水開始。1957年に座間町は企業誘致を開始[注釈 5][注釈 6][注釈 7][16][注釈 8]。その後宅地化が進んだ。
大字小字・飛地の整理に関して追記
日産自動車座間事業所内第二・第三地区は、行政地名として「座間入谷」「栗原」の大字が実存している[19][20]。日産自動車座間事業所は事業所登録所在地を「座間市広野台二丁目10番1号」としているが、すでにその住居表示の土地は、イオンモール座間・物流センターほかに売却されている。日産神奈川販売株式会社カレスト座間店の所在地は座間市広野台二丁目10番3号となっている。
世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 |
世帯数 |
人口
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ひばりが丘一丁目
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1,808世帯
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3,807人
|
ひばりが丘二丁目
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1,527世帯
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3,373人
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ひばりが丘三丁目
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1,693世帯
|
3,782人
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ひばりが丘四丁目
|
459世帯
|
971人
|
ひばりが丘五丁目
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1,789世帯
|
3,651人
|
計
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7,276世帯
|
15,584人
|
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[27]。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[28]。
丁目 |
事業所数 |
従業員数
|
ひばりが丘一丁目
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70事業所
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417人
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ひばりが丘二丁目
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61事業所
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307人
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ひばりが丘三丁目
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57事業所
|
403人
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ひばりが丘四丁目
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83事業所
|
2,266人
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ひばりが丘五丁目
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96事業所
|
1,181人
|
計
|
367事業所
|
4,574人
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事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
交通
鉄道
町内に鉄道駅はない。
バス
- 神奈川中央交通東の路線
- (小02)小田急相模原駅 - 小松原入口 - ひばりが丘一丁目 - 南林間駅
- (小03)小田急相模原駅 - 小松原入口 - イオンモール座間 - 小松原入口 - ひばりが丘一丁目 - 南林間駅
- (林03)南林間駅 - ひばりが丘一丁目 - 小松原入口 - イオンモール座間
道路
施設
その他
日本郵便
参考文献
- 『座間市史第4巻』
- 『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行
- 『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』発行:昭和61年
- 『座間むかしむかし第1集』発行:昭和32年10月15日 発行者:座間町教育委員会
- 『座間むかしむかし第3集』発行:昭和49年5月20日 発行者:座間市教育委員会
- 『座間むかしむかし第6集』発行:昭和57年1月16日 発行者:座間市教育委員会
- 『座間むかしむかし第25集』発行:平成15年3月28日 発行者:座間市教育委員会
- 『広報ざま縮刷版 第1巻』
- 『広報ざま縮刷版 第2巻』
- 『鶴間新町のルーツを探る座談会』大和市市史編さん事務局
- 『相模原津久井・町田の電信電話史』相武電鉄上溝浅間森車庫付属資料館 平成31年3月10日発行
脚注
注釈
- ^ 不動産登記法に基づく地番整理(地番の付け直し)は実施せず。
- ^ 『座間むかしむかし第1集』芝原の開墾19頁・『座間の語り伝え7村制編1』92頁~107頁
- ^ 住民に外交官としてドイツに赴任したことのある人がいて、かの地に「ヒバリの丘」の地名があったことを思い出し、提案したと言う。『座間の地名』p123
- ^ 新田宿・座間・座間入谷の三地区の農家は水田があり困らないこと、工事負担金と使用量が相当高額になってしまうことが理由で組合に加入しなかったため、旧座間入谷の小松原とひばりが丘一丁目全域・五丁目一部は利用できなかった。※栗原は用水組合に加入したため、ひばりが丘の栗原分・東原・さがみ野ほか栗原全域で灌漑用水を利用できた。座間町の工場誘致と宅地化が進み、畑地灌漑用水路は役目を終え1970年3月、用水を管理していた「相模原畑地灌漑土地改良区」が解散し通水終了。『座間むかしむかし第25集』相模が丘(芝原)の移り変わり5食糧難と畑地灌漑8頁~11頁・『座間の地名』25頁
- ^ 東芝機械・岡本理研ゴム
- ^ 高座海軍工廠跡地の集団養鶏場(昭和45年12月に愛甲郡愛川町へ移転『座間の語り伝え7村制編1 107頁』)
- ^ 『座間広報』第61号昭和33年8月25日発行2頁に「栗原養鶏場が栗原芹沢に出来ました」との記述あり。
- ^ 1964年12月、日産自動車座間工場一部完成・操業開始。『座間広報』第77号昭和39年3月31日発行1頁に「昭和38年7月、行政道路の中央部から南側へ小池の一端にかけ用地約15万坪売買契約締結、昭和39年1月農林省の転用認可も交付され、昭和39年3月12日会社側で地鎮祭執行」との記述あり。
- ^ 住居表示を同時実施せず、字丁目とした。ひばりが丘が大字、1丁目~5丁目が小字の「字丁目」方式。
- ^ ひばりが丘に統合された地域は、大字栗原字東原の一部(現・二丁目〜四丁目全域と五丁目の大部分)と大字座間入谷飛地(現・一丁目全域と五丁目の残り全域)、小松原二丁目の一部。
- ^ 参考資料:『広報ざま』第37号 昭和49年11月1日発行4頁に「小松原・広野台の字名を変更、広野台は広野台1丁目・2丁目、小松原は小松原1丁目・2丁目と字名が変わります~中略~なお、地番については現在の地番をそのまま使用しますからみなさんのご協力をお願いします。※原文ママ」と記述あり。
出典
関連項目