浅川マキ
浅川 マキ(あさかわ マキ、1942年1月27日[注釈 1][2] - 2010年1月17日[3])は、日本の歌手、作詞(詩)家、作曲家、編曲家。淺川マキと綴られることもある。 略歴石川県石川郡美川町(現:白山市)出身。石川県立金沢二水高等学校卒業[1]。 町役場で国民年金窓口係の職に就くも程なくして上京する。マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始める。 1967年にビクターからシングル『東京挽歌/アーメン・ジロー』を発表する[注釈 2]も本人と事務所の音楽的指針に大きな乖離があり、当時の出来事がその後の活動に影響を与えた。 1968年、寺山修司と寺本幸司に見出され新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を三日間に渡り催行、口コミで徐々に知名度が上がる。東芝音楽工業株式会社[注釈 3]に移籍。 1969年7月1日、寺本幸司のプロデュースによる『夜が明けたら / かもめ』(EXPRESS-レーベル)で正式にレコード・デビュー。以後移籍することなく作品を発表しつつステージを主体に音楽活動を行う。特に池袋「文芸坐ル・ピリエ」で1997年まで催行した大晦日連続定期公演は有名である。 1992年、「ゼロアワー・シリーズ( 2000年以降はジャズ・クラブ「新宿 PIT INN」を本拠地として定期公演を再開。2000年3月26日から11月26日の「新宿PIT INN」では、『毎月・最終の日曜日 浅川マキを聴く』と題し、アカペラによる公演を行った(全9日、昼夜2回。計18公演)。 「渇いたブルースをうたわせたら右に出る者はいない」と言われ[4]、ジャズやブルース、ゴスペル、フォークソング等を独自の解釈で歌唱した。 2010年1月17日、ライブ公演で愛知県名古屋市に滞在中、宿泊先ホテルで倒れていたところを発見され、搬送された病院で死亡が確認された。愛知県警中警察署によると、死因は急性心不全とみられる[5][6]。 2010年3月4日、「新宿 PIT INN」にてお別れの会『浅川マキ「こんな風に過ぎて行くのなら・浅川マキがサヨナラを云う日」』が催行された。ここでは真赤なバラの花の献花台とメッセージ・ボックスが用意され、彼女の生前の作品が流された。翌2011年5月、北陸放送が彼女を題材にしたラジオドキュメント「浅川マキ ロング・グッド・バイ」を制作・放映した。 CDの音質に対して懐疑的であったため、1998年より新譜を発表していなかったが、2004年に映像集『幻の男たち LIVE1984』のDVD化、2007年にベスト・アルバム『DARKNESS IV』を発売するなど徐々に作品が発売されるようになり、2008年にオフィシャルサイトにて〝今年は久しぶりに新しい作品造りに入ります。〟[7]とメッセージが出たものの、実現しなかった。オリジナルアルバムでは亡くなる12年前に発売した1998年のアルバム『闇のなかに置き去りにして〜BLACKにGOOD LUCK』が遺作となった。 存命中は本人の意向により作品の大部分が廃盤[注釈 4]だったが、2010年から2011年に掛けて相次いでCD化、発売された(詳細は後述)。 一周忌に当たる2011年1月に、ファースト・アルバム『浅川マキの世界』から『寂しい日々』までの70年代アルバム10作、6月に『ONE』からLP盤が発売された最後のアルバム『Nothing at all to lose』まで80年代のアルバム14作がデジタルリマスタリングされた音源に、オリジナルレコード(LP盤)の歌詩カード(一部の作品に例外、及び色や紙質などの差異あり)やレコードレーベルを再現した紙ジャケット仕様で復刻(初CD化作品含む)。但し、帯は紙ジャケットシリーズで新たにデザインされたものに統一され、オリジナルレコード帯は再現されていない。また『WHO'S KNOCKING ON MY DOOR』以降はオリジナルレコード盤に元々帯が無く、帯代わりのステッカー(シール)が添付されていたが、こちらも再現されていない。 2013年4月にEMIミュージック・ジャパンがユニバーサルミュージック合同会社に吸収合併されたため、EMIが運営していた浅川マキオフィシャル・ウェブサイトが閉鎖。ユニバーサルミュージックの統一のシンプルなサイトに切り替わった。 浅川の音楽は海外からの評価も高く、2015年には、イギリスのレーベル「Honest Jon's Records」から独自の企画盤『Maki Asakawa』(HJRCD111)がリリースされた。 作品観作品に対する姿勢浅川マキは音楽そのものに限らず音質、ジャケットデザイン、ライナーノーツ、ポスターの配置などにも一貫した美意識を持ち、終生その姿勢を崩すことはなかった。 日本国内に於けるアンダーグラウンドを主体とした音楽活動の第一人者であるが、“アンダーグラウンド” と “(いわゆる)アングラ” を混同してはならないと主張。独自の美意識を貫く姿勢を「時代に合わせて呼吸をする積りはない」[4]と自ら表現している。 自らの作品に於いて “作詞” の表記を “詞” ではなく、“詩” を用いている[要出典]。但しアルバムの歌詞(歌詩)カードでは、“作詞”と表記されているものと“作詩”と表記されているものがある。 外国作品を自ら日本語で唄う場合、原作の保つ世界観を損なわぬよう先ず対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで推敲し新たに詩作を行った。そのため表記を “訳詩” とせず “日本語詩” としている。ちあきなおみの歌唱で知られる「朝日のあたる家(朝日楼)」やダミアの歌唱で有名な「暗い日曜日」、ビリー・ホリデイの歌唱で知られる「マイ・マン」等に於いて独自に制作した日本語詩などは特に著名である。 ライターデビュー前の藍渕邪子が楽屋を訪れ〝「東京挽歌」の音源(7インチシングル盤)を持っている〟と告げたところ即座に〝棄ててください〟と返答した経緯がある。「東京挽歌」が世に出たこと自体は否定せぬものの “歌手・浅川マキ” の意向が反映されていないためディスコグラフィーから外しているという。だが、その経緯はステージ公演中に本人も話題にすることがあった。 1993年、東芝EMIが “音蔵シリーズ” と称するアルバム作品群のCD化企画を行い、その中に浅川マキのアルバムが4タイトル含まれていたが、発売するも短期間で自ら廃盤にした。〝音質が気に入らなかったの、特に『マイ・マン(『マイ・マン+1』)』の(CDの)音はジャズではないんです〟と語った。後日別件でEMIを訪ねた藍渕が〝浅川マキの作品は浅川本人の意向により廃盤せざるを得なかった〟と当時の担当者より取材している。生涯、CDの音質について懐疑的な姿勢を示した。 楽曲「ロング・グッド・バイ」
当時、浅川マキは本作の歌唱に難色を示したが[8]、寺山本人から「マキがこの作品を唄わないならば、僕(寺山)が演出する意味が無くなる」と説得され、唄う決意を固めた。作曲を担当した山木幸三郎も新幹線の車中にて懊悩したという。蠍座での公演は録音され、初のアルバムである『浅川マキの世界』ではB面にその殆どが収録されたが本作のみは東芝も発表および録音を拒絶、1968年当時の公式な録音は現存しない。音楽出版ジュンアンドケイは出版権を持つものの「詩・曲・譜面データは社内に資料が現存していない」と2003年9月に取材を行った藍渕への問い合わせに回答している。 1968年の披露以来、蠍座最終日公演を最後に「ロング・グッド・バイ」はその後10数年にわたって再び唄われることはなかった[8]。9分近い本作を浅川マキが時折唄うようになったのは、1983年に寺山が死去して以降となった[8]。 本作はノンフィクションであり、実名も出てくること、また1968年当時〝更に重大な約束があり〟(浅川マキ、談)、以上の理由から今後も録音、出版される可能性は極めて低い。但し浅川マキ生前のステージ公演にてアカペラにて披露される機会は稀にあり、本作の歌唱前には必ず発表までの詳細な経緯が語られたうえで披露された。 2001年8月5日、青森県三沢市『寺山修司記念館』での開館4周年記念イベント『テラヤマ・ワールド2001 IN 三沢』(副題:寺山修司と【賞】)では、第3部がコンサート『ロング・グッドバイ』と題され浅川マキがアカペラで寺山作品を歌唱。本作も披露された。 エピソード
音楽作品シングル
コンパクト盤
アルバムスタジオ・アルバム
ライヴ・アルバム
コンピレーション・アルバム
ベスト・アルバム
アルバムBOX
その他のアルバム
カセット企画
映像作品
上記の他、1970年開催の第2回中津川フォークジャンボリーで『かもめ』を唄う模様を記録したフィルムが現存する。 プロデュース作品以下作品は「ゼロアワー・シリーズ(
著書
出演
関連項目生前交流があったアーティスト 脚注注釈
出典
外部リンク
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