東園基愛
東園 基愛(ひがしぞの もとなる[1]、嘉永4年6月14日[1]〈1851年7月12日〉 - 大正9年〈1920年〉11月10日[1])は、江戸時代末期から大正時代にかけて活躍した公家、華族(子爵)。羽林家の家格を有した東園家の第12代当主。孝明・明治・大正と三代の天皇に仕え、侍従、宮中顧問官、掌典次長を歴任した[2]。 生涯誕生と幼少時代嘉永4年6月14日(1851年7月12日)、東園基敬の長男として生まれた[1]。母は賀茂県主氏出身の山本氏鍛の娘[3]。 嘉永5年3月27日(1852年5月15日)、叙爵された[4]。安政6年11月27日(1859年12月20日)、元服し昇殿を許され、従五位上に叙された[4]。 明治天皇の侍従侍従就任、諸国に供奉す(1868 - 1873)慶応4年正月、国事書記御用掛を命じられた[4]。4月、明治天皇の大坂親幸に供奉した[4]。閏4月21日(1868年6月11日)、明治天皇の近習となった[5][注釈 1]。9月8日(10月23日)、明治に改元される。9月14日(10月29日)には侍従に任じられた[4]。また同月中には紫掛緒の着用を免許された[4]。10月、明治天皇の東幸に供奉した[4]。 明治2年3月7日(1869年4月18日)、伊勢神宮親拝と東京再幸に供奉した[4]。7月8日(8月15日)、百官が廃止された[4]。7月19日、鎌倉宮落成のため遷宮に供奉した[4]。8月22日(9月27日)、改めて侍従に任じられた[4][6][注釈 2]。明治3年5月12日(1870年6月10日)、臨時の御乗馬御用掛に任命された[7]。11月21日(1871年1月11日)には神楽御人数を拝命した[4]。 明治4年7月28日(1871年9月12日)、侍従を免じられ[8][9]、次侍従に降格させられた[3][9][10]。8月12日(9月26日)には職掌分担が取り決められ、御乗馬掛となった[11][12]。9月22日(11月4日)、侍従に再任された[4][注釈 3]。翌5年5月23日(1873年6月28日)、西国への巡幸に供奉した[4]。 樺太への視察出張の代行(1873 - 1876)明治6年(1873年)3月、函泊でロシア帝国軍との衝突事件が発生した[13]。11月8日、これを受けて宮内卿徳大寺実則・宮内少輔吉井友実らは、すでに決定していた東北巡幸の視察を兼ねてか侍従の派遣を明治天皇に要請した[14]。翌日には高島鞆之助・山口正定が樺太視察を命じられ、12月に入って筑波艦で赴くが風濤により函館に帰った[15]。そこで黒田清隆は新たな侍従の派遣を提案し、基愛を推薦[16]、12月31日、基愛は樺太出張を命じられた[4]。 明治7年(1874年)1月1日、基愛は堀基・時任為基と共に開拓使付属船である玄武丸に乗船し、横浜から出港した[13][16][17]。1月4日に函館到着、翌5日に函館を出港し、7日の晩には 明治8年(1875年)2月28日、英照皇太后の真影を下賜された[19]。3月4日、嫡男の基光が生まれた[1]。明治9年(1876年)6月2日からは奥羽巡幸に供奉した[4]。 家督継承と相次いだ死別(1876 - 1883)明治9年(1876年)8月24日、父より家督を受け継いだ[1]。 明治12年(1879年)2月21日、長女・英子(えいこ)が生まれたが、翌13年(1880年)3月27日に夭折した[4]。明治15年(1882年)2月27日には次男・基靖(もとやす)が生まれたが、同年3月13日に夭折した[4]。 明治15年(1882年)12月28日、御服掛主任に就任した[20]。 明治16年(1883年)5月26日午後3時40分に父基敬が薨去した[21][注釈 5]。基愛は同日中に内閣書記官宛てに『忌服御届』を提出し、同日より7月14日まで50日の忌、翌年5月中まで13か月の服を申請した[* 1]。 同年9月6日に韶子内親王が薨御すると、9月9日の御霊遷式[22]、10月5日の三十日祭[23]、10月26日の御霊御遷座式に[24]勅使として代参した。10月23日、明治天皇の日比谷練兵場行幸に供奉した[25]。12月5日、近衞敬子(天璋院)の葬送に勅使として徳川家達邸に赴いた[26]。 侍従・東園子爵新制侍従任命と子爵叙爵(1884 - 1885)明治17年(1884年)3月6日、皇居炎上に際して24円90銭3厘余を献金した功により、木盃一個を賜った[4][27][28]。3月21日、それまでの侍従が廃止されて3月22日に侍従職が設置され、基愛は改めて侍従に就任、六等官相当として月俸150円を受けた[4][29][30][31]。5月9日、習志野での近衛兵演習があるため、伏見宮貞愛親王に従い大河内正質と共に出張し[32]、5月11日に帰京した[33][34]。7月8日、子爵に叙された[4][35][36]。8月28日、スウェーデン国王オスカル2世の王子オスカル・カール・アウグストが来日し、新橋停車場にて侍従堀河康隆・荻昌吉等と共にこれを出迎えた[37]。9月24日、元老院議官作間一介の葬送が執り行われ、勅使として作間邸に赴き、紅白絹二疋の下賜を担った[38]。 明治18年(1885年)3月16日、近衛兵春季小演習が行われるため宮内省より岡田善長と共に相州へ出張することを命じられ[39]、3月21日に出発した[40][41]。7月1日、柳原光愛が薨去したことに伴い、勅使として柳原邸に参向した[42][43]。7月24日、父島で起こった騒擾について民情を視察するため[注釈 6]、毛利左門と共に小笠原島への差遣が命じられ[44][45]、11月22日に出発し[45]、12月25日に帰京した[46]。 華族世襲財産親族会議員(1886 - 1887)
明治19年(1886年)2月15日、宮内省の勅任・奏任の官等、年俸が改訂され[47]、それに従って奏任二等として年俸1800円を下賜された[48]。2月20日、沖縄県巡回を命じられ[49]、2月26日に出発[50][51]、3月31日に帰京した[52][注釈 7]。5月15日の東京砲兵工廠および砲兵第一方面への行幸[53]、5月18日の高等師範学校への行幸に供奉した[54]。5月25日、伊地知正治の葬送があり、勅使として伊地知邸に赴き、紅白絹各二疋・真綿十屯・鰹節十連・神饌七台の下賜を担った[55]。8月1日に施行された華族世襲財産法に従い、園基祥・高辻修長と共に壬生基修の華族世襲財産親族会議員となった[56]。翻って基愛は植松雅平・園基祥・壬生基修の3名を華族世襲財産親族会議員に定めた[57]。9月8日、章子内親王三年式年祭があり、霊殿・墓所に於いて明治天皇に代わり拝礼した[58]。10月26日、山梨県に出張し、11月1日に帰京した[59]。11月10日の伏見宮邸への行幸[60]、11月26日の神奈川県長浦への行幸啓[61]、11月29日の吹上御苑への行幸供奉した[62]。11月30日、宮内省より対馬出張を命じられ[63]、12月1日に浪速艦に乗り出発[64]、12月13日に帰京した[65]。 明治20年(1887年)4月18日、日比谷練兵場での除隊式天覧に供奉した[66]。また、植松雅平・藤井行道と共に桜井供義の華族世襲財産親族会議員となった[67]。4月21日、観桜会に供奉した[68]。 被災地の実地視察と救恤(1888 - 1898)明治十八年の淀川洪水以来、災害発生に際して天皇から被災者救済と現地視察を行わせるために侍従を派遣するようになったが[69]、次に見るように磐梯山の噴火以降その任を基愛が能く務めるようになった。 明治21年(1888年)7月17日、磐梯山の噴火(1888年の磐梯山噴火)に対する被災地への実地視察として、会津への差遣を命じられた[70][71][72]。基愛は即日東京を出発し[72][注釈 8]、19日に会津に到着[72]、21日に折田平内福島県知事の案内により長瀬川を検分した[69]。この差遣の最中には天皇への奏上のため、泥の付着した繭や桑の葉、麻などを採取したという[69]。23日に帰京し復命した[72][注釈 9]。 明治22年(1889年)5月、平鹿郡横手町で失火があり、基愛はこの被災者に金10円を施与したが、これを受けて翌年(1890年)3月18日、賞勲局より木杯一箇を下賜された[73]。 明治24年(1891年)11月12日、濃尾地震で被災した福井県(のち11月17日には滋賀県も追加[74])への視察を命じられ[75]、翌13日に出発し[76]、同月23日に帰京し[77]、復命した[78]。翌年(1892年)1月5日にはさらに岐阜県・愛知県への被災地視察を命じられ[79][80]、1月17日に出発して[81]、同日中に到着した[82]。『官報』第2577号, pp. 10–11, 「彙報(雑事):震災地実況視察」による視察の日程は以下の通り。
明治26年(1893年)8月6日、八王子大火が発生し[85]、8月10日に八王子差遣を命じられ同日中に参向し、翌11日に帰京した[86][87][88]。 明治29年(1896年)6月15日、明治三陸地震が発生、甚大な津波被害を被った。6月18日、基愛が宮城・岩手への実地視察を命じられ[89]、翌19日出発した[90]。この視察では、被災者に迷惑が掛からぬよう質素を心がけ、草鞋履きで視察したという[91]。行程は、『1896明治三陸地震津波』, p. 52などによると以下の通りである。
7月13日には明治天皇に視察した内容を奏上し[95]、7月16日には昭憲皇太后に拝謁し被災地の様子を伝えた[96]。 このときの視察では、大條虎介・高橋元英・遠山勇徳の三人で救護に当たっていた小友村の救済所を訪れている[97]。大條は基愛に対して、
という歌を献上しており、この歌は基愛を通じて明治天皇に奏上されたという[98]。 明治30年(1897年)4月22日に発生した八王子大火では金2円の賑恤を行い、3年後の明治33年(1900年)12月2日に賞勲局より木杯一組を下賜されている[99]。 華族・官吏死去への勅使(1888 - 1898)被災地への実地視察を行っている間にも、葬送に関して多く勅使を務めた。明治21年(1888年)9月11日には上級俸を[100]、翌年(1889年)7月23日には三級俸を宮内省よりそれぞれ下賜され[101]、さらに翌年(1890年)12月22日には二級俸を内閣より下賜された[102]。明治24年(1891年)5月12日には明治天皇の京都行幸への供奉を命じられ[103]、6月12日には中村正直葬送に勅使として参向し幣帛の下賜を担った[104]。明治25年(1892年)11月15日、山田顕義の薨去を受けて弔問のため勅使として同邸に赴き[105]、11月17日の葬送にも勅使として差遣され葬場・墓所にて焼香した[106]。明治26年(1893年)2月8日、石井邦猷の葬送があり勅使として参向し白絹二疋の下賜を担った[107]。明治27年(1894年)秋田差遣から帰京した翌日の9月14日には渡邊央葬送に勅使として参向し白絹二疋の下賜を担い[108]、11月1日には広島から持参した戦利品を昭憲皇太后へ御覧に入れ[109]、12月22日には薨去した前田献吉邸に勅使として参向し白絹二疋の下賜を担った[110]。明治28年(1895年)2月16日には薨去した藤堂高猷邸に勅使として参向し白絹・供物の下賜を担い[111]、5月3日には有栖川宮熾仁親王百日祭のため有栖川宮邸・墓所に勅使として参向し玉串を捧げ[112]、11月3日には天長節祭の御代拝を務めた[113]。明治29年(1896年)2月6日には亡くなった川田甕江邸に勅使として参向し白絹二疋の下賜を担い[114]、12日には北白川宮能久親王百日祭に北白川宮邸・墓所に勅使として参向し玉串を捧げ[115]、15日には平井希昌葬送に勅使として参向し白絹二疋の下賜を担い[116]、18日には三条実美五年祭に勅使として参向し墓所にては玉串を捧げそののち三条邸にては祭粢料の下賜を担った[117]。3月27日には孝明天皇陵への参向を命じられ[118]、29日に出発した[119]。5月17日には泰宮聡子内親王命名祭典にて代拝し[120]、19日には杉山直矢葬送に勅使として参向し幣帛下賜を担った[121]。6月11日には宮内省三等に叙された[122]。12月22日の帝国大学行幸に際しては、帝国大学医科大学付属医院新築病室・寄宿舎・集会所を巡覧した[123]。12月30日には毛利元徳葬送に勅使として参向し、勅を伝宣して幣帛・神饌等を伝え、続いて棺前・墓所にて玉串を捧げた[124]。明治30年(1897年)7月18日には五条為栄の葬送に勅使として参向し幣帛の下賜を担い[125]、8月17日の輝仁親王三年祭では勅使として代拝した[126]。12月26日に島津忠義が薨去すると[127]、12月28日に勅使として鹿児島市への参向を命じられた[128]。翌年(1898年)1月1日に出発し[129]、1月8日、明治天皇の勅使兼昭憲皇太后の御使として鹿児島市に在る島津忠義邸に赴き、勅使として勅語・幣帛・神饌などを、御使として幣帛紅白絹各一疋を遺族に与えた[130][131]。1月9日には忠義の国葬が執り行われ、明治天皇・昭憲皇太后の御使として棺前および墓所にて玉串を奉奠した[130][131]。1月18日に帰京した[132]。 同年(1898年)2月17日に山階宮晃親王が薨御すると同日中に京都差遣が命じられ[133]、翌日に出発した[134]。2月25日には山階宮邸に勅使として参向し白地錦一巻・神饌七台の下賜を担い[135]、翌日の葬送では宮邸・墓所にて玉串を捧げ[136]、3月5日に帰京した[137]。基愛は明治34年(1901年)2月17日の晃親王三周年御霊前祭にも勅使として参向し代拝、祭粢料を伝え玉串を捧げている[138]。 また同年(1898年)3月24日、薨去した近衛忠熙邸に勅使として参向し勅語の伝宣と祭粢料8000円、白絹・供物などの下賜を[139]、7月9日、薨去した神田孝平邸に勅使として参向し白絹二疋の下賜を担った[140]。11月12日には猷仁親王十年式年祭の御霊殿祭・御墓祭に勅使として代拝した[141]。 この間の明治23年(1890年)7月10日には華族会館に於いて貴族院伯子男三爵議員選挙が執り行われている[142]。基愛は当選したが、7月16日、これを辞退した[143]。歴史学者の佐々木克はこの辞退について、基愛以外にも多くの辞退者がいたことを見て、選挙執行前の7月8日に出された宮内省達[原文 1]により議員と宮内省内の部局との兼任ができないとされたためであり、貴族院議員であることよりも現職であることを選んだからであるとしている[143]。 久邇宮家の王女との再婚(1899 - 1903)明治32年(1899年)3月14日、妻の忠子に先立たれた[1]。9月5日、明治天皇より、久邇宮朝彦親王の第二王女である栄子女王との結婚を勅許された[144]。基愛は、16日に鹿児島・兵庫への出張から帰京した後[145]、26日に結婚した[原文 2]。 同年12月21日には薨去した池田茂政邸に勅使として参向し幣帛・神饌等の下賜を担った[146]。明治33年(1900年)2月1日、旬祭を代拝した[147]。同年2月3日には亡くなった本多康直邸に勅使として参向し幣帛を[148][149]、2月27日には橋口兼三葬送に勅使として参向し白絹二疋を[150][151]、3月2日には品川弥二郎葬送に勅使として参向し白絹二疋を伝えた[152][153]。明治35年(1902年)1月22日には永山盛輝の葬送に勅使として参向し幣帛を伝達した[154]。明治36年(1903年)1月28日には中村元雄葬送に勅使として参向し白絹二疋を[155]、7月18日には長松幹葬送に勅使として参向し幣帛を[156][157]、12月5日には亡くなった原田種成邸の勅使として参向し幣帛を伝達した[158][159]。 正倉院勅封開鍼閉封使節(1899 - 1915)明治30年代から、前任の西四辻公業に代わって基愛は御物を扱う侍従として正倉院に参向し始めた[160]。『官報』には明治32年(1899年)から差遣を命じられている様子が見て取れる。明治34年(1901年)には本条時乗から正倉院の鍵を移譲され、これ以降基愛率いる使節団が開鍼・閉封を担うようになった[160]。以下に差遣の一覧を掲げた。
侍従に宮中顧問官を兼任(1904 - 1912)明治37年(1904年)2月16日、宮中顧問官を兼任し、二等に叙された[191]。4月13日、広瀬武夫葬送に勅使として築地水交社に参向し幣帛を伝えた[192][193]。8月14日、川村純義が12日に薨去したことを受けて明治天皇の勅使として川村邸に参向し幣帛・神饌の下賜を担った[194][195][196]。また、この年、伊藤博文の韓国差遣に随行することを命じられている[197]。 明治38年(1905年)1月23日、内海忠勝葬送に勅使として参向し白絹二疋を伝えた[198][199]。4月18日、鳥尾小弥太葬送に勅使として参向し白絹二疋を伝えた[200][201]。12月19日、角田秀松葬送に勅使として参向し白絹二疋を伝えた[202][203]。 明治39年(1906年)4月1日、日露戦争の功で金800円を下賜された[204]。8月29日、亡くなった芹沢政温邸に勅使として参向し白絹二疋を伝えた[205]。 明治40年(1907年)2月4日、鈴木大亮葬送に勅使として参向し白絹二疋を伝えた[206]。8月2日、木下哲三郎葬送に勅使として参向し白絹二疋を伝えた[207]。 明治41年(1908年)1月25日、石川敦古葬送に勅使として参向し幣帛を伝えた[208]。7月14日、東伏見宮依仁親王に随行して京都帝国大学に赴き、その卒業式に於いて恩賜の銀時計を下賜した[209]。7月26日、敬仁親王三十年式年祭に代拝を務めた[210]。 同年11月21日、博経親王妃郁子の葬送に華頂宮邸・墓所に差遣され代拝を担った[211]。翌42年(1909年)2月21日の郁子百日祭にも勅使として宮邸・墓所に差遣され代拝した[212]。 明治42年(1909年)4月29日、勅使として北白川宮邸に参向し、北白川宮成久王・房子内親王の成婚を祝賀した[213]。12月14日、賀陽宮邦憲王が薨去したことにより勅使として賀陽宮邸に参向し幣帛・神饌等を伝え[214]、翌15日の葬送にも勅使として賀陽宮邸・墓所に差遣され、玉串を捧げた[215]。 明治43年(1910年)5月13日、平山藤次郎葬送に勅使として差遣され、白絹二疋を伝えた[216]。7月9日、徳川昭武薨去のため小梅邸に勅使として差遣され、幣帛・神饌と誄の伝宣を行った[217]。7月20日、河鰭実文の葬送に勅使として参向し、白絹二疋を伝えた[218]。12月11日、医学博士柏村貞一が亡くなったことを受け、勅使として参向し白絹二疋を伝えた[219]。 明治44年(1911年)7月5日、甲斐敬直の葬送に勅使として参向し白絹二疋を伝えた[220]。8月25日、薨去した平松時厚の邸に勅使として参向し白絹二疋を伝えた[221]。11月3日、天長節にて勅使として代拝した[222]。12月26日、古沢滋が亡くなったことを受けて古沢邸に勅使として参向し、幣帛を下賜した[223]。 明治45年(1912年)1月6日、薨去した東久世通禧邸に勅使として参向し幣帛・祭粢料5000円の下賜を担い、霊前に焼香、誄を伝宣した[224][225]。2月19日には石川・富山への差遣を命じられ[226]、翌20日に出発、諸陵頭山口鋭之助と共に、1月中に治定された恒性王墓および昨年12月に修理が終了した大入杵命墓を検査し、25日に帰京、26日に復命した[227]。7月26日には渡邊湊の葬送に勅使として参向し幣帛の下賜を担った[228][229]。 大正天皇の治世先帝と有栖川宮の葬送(1912 - 1914)大正元年(1912年)7月30日、大正天皇が践祚した。そして、明治天皇の葬送の儀式も同時並行で行われた。基愛は、9月10日の宮内省の命により明治天皇霊柩に供奉し[230]、12月28日省命により伏見桃山陵起工奉告に勅使として参向した[231]。大正2年(1913年)8月2日、明治天皇霊代奉遷の儀が執り行われ、権殿の儀における祭典で、勅使として代拝した[232][233]。 大正2年(1913年)7月10日に有栖川宮威仁親王が薨去すると、7月16日には柩前に、7月17日には葬場に勅使として参向し玉串を捧げ[234][235]、8月28日の五十日祭にも有栖川宮邸・墓所に勅使として参向し代拝した[236]。8月31日には天長節祭があり宮中三殿に差遣され代拝した[237][238]。9月6日には韶子内親王三十年式年祭があり勅使として霊殿・墓所に参向し代拝した[239]。 また、元年中には、11月29日桜井規矩之左右葬送に付き勅使として桜井邸に赴き幣帛下賜を担い[240]、12月11日省命により富山県に差し遣わされた[241]。大正2年(1913年)には、2月18日に本居豊穎葬送に付き勅使として本居邸に赴き幣帛下賜を担い[242]。3月29日には諸陵頭山口鋭之助・諸陵寮事務官神谷初之助と共に京都・大阪・奈良・三重・愛知・滋賀・和歌山への差遣を命じられた[243]。5月24日には大正天皇が肺炎になったことを聞いた裕仁親王が雍仁親王・宣仁親王と共に基愛を通じてご機嫌伺いをした[244]。6月28日には京都帝国大学へ差し遣わされ[245]、7月11日に免じられた[246]。大正3年(1914年)3月7日、3月5日に薨去した松田正久邸に勅使として参向し、幣帛・供物・花一対・祭粢料5000円の下賜を担い、誄を伝宣した[247][248]。4月2日、省命により東京・京都・大阪・奈良・三重・岐阜・和歌山に差し遣わされた[249]。 皇太后と頼子妃の葬送(1914 - 1915)大正3年(1914年)4月11日、昭憲皇太后の崩御に伴って設置された大喪使の祭官副長に正親町実正と共に就任したが[250][251]、5月18日に依願辞職した[250][252][注釈 10]。5月2日、霊柩を運ぶ引綱を執り、殯宮に遷した[253]。7月20日、権殿・山陵での祭事のため臨時に祭官等が設置され、基愛は勧修寺経雄と共に祭官副長に就任した[254][255]。基愛は権殿奉仕を命じられた[255]。この祭官は翌年(1915年)4月12日に廃職となった[256]。 同年(1914年)6月26日に彰仁親王妃頼子が薨去すると、翌27日には小松宮邸に勅使として参向して弔問し[257]、7月4日には葬場に勅使として参向し玉串を奉奠した[258][259]。 この間、6月10日には旧堂上華族保護資金調査委員に就任している[260]。 大正天皇の即位の大礼(1915)大正4年(1915年)8月13日、大礼使事務官に就任し[261]、翌14日に典儀部勤務となった[262]。10月31日、内閣・宮内省より京都行幸供奉を命じられた[263]。11月11日、即位礼後一日賢所御神楽の儀では、御学問所出御の際は神璽捧持の清水谷実英の後ろに縦列した[264]。11月12日、御禊の儀では、出御に扈従し、小御所にては高辻宜麿と共に上段の間の西北に列立、基愛は荒世御服を供して授けられ、園池実康に伝えた[264]。11月14日、大嘗祭が行われるが、大忌御湯の儀の後廻立殿へ渡御する際に大炊御門家政と共に御裾を奉仕した[265]。11月16日からは大饗が行われ、基愛は宝剣を捧持した[266]。 この間、8月31日には大正天皇日光駐輦中のため天長節祭に代拝し[267][268]、9月6日、薨去した井上馨邸に勅使として参向し、幣帛・供物・花・祭粢料5000円の下賜を担い、霊前に誄を伝宣した[269][270]。 掌典次長の就任と晩年(1915 - 1920)大正4年(1915年)12月28日、それまで掌典次長を務めていた九条道実が掌典長に昇任したことを受け、同日基愛が侍従より転じて掌典次長に就任した[271]。 大正5年(1916年)2月11日、紀元節祭に奉仕した[272]。4月1日、神武天皇二千五百年式年山陵祭が親祭にて執り行われ、神饌幣物供進の後基愛が祝詞を奏上した[273]。10月22日、裕仁親王が立太子の礼に於ける賢所大前の儀の習礼を行い、これに掌典長九条道実と共に掌典次長の基愛が奉仕した[274]。11月3日、裕仁親王の立太子の礼が挙行され、裕仁親王が賢所に参進する際に掌典次長として前行した[275]。 大正6年(1917年)4月10日、東京奠都五十年奉祝博覧会に行啓した裕仁親王に、同会関係者(顧問)として武井守正(会長)・平山成信(副会長)・藤波言忠(顧問)と共に拝謁した[276]。 大正8年(1919年)5月7日、裕仁親王の成年の礼が挙行され、裕仁親王が賢所に参進する際に掌典次長として前行した[277][278]。11月23日、新嘗祭が挙行されるが、大正天皇は出御せず裕仁親王が便殿に参進して拝礼、この参進について基愛と濱尾新が前導した[279]。 大正9年(1920年)11月9日、何事もなく宮内省への出仕から帰宅したのち23時15分に発病し、危篤に陥った[280][281]。危篤に際しては、高等官一等に叙され、特旨により位一級を進めて正二位に昇叙させて勲一等瑞宝章を授けられ[282][283]、大正天皇・貞明皇后から葡萄酒1ダースを下賜され[280]、また裕仁親王から御尋として菓子を下賜された[281]。翌10日午前、ついに薨去した[284]。これを受けて、大正天皇から祭粢料3000円を[282]、裕仁親王から祭資を下賜された[281]。嫡男の基光はこのとき県知事として富山県に赴任しており、危篤の知らせを受け10日22時に帰京した[280]。11月13日、葬送が行われ、勅使として侍従黒田長敬が差遣され幣帛を下賜した[282]。 墓所は妹蓮瑞が住職を務めた西光庵。同地の墓碑によると戒名は現德院殿馨譽忠順基愛大居士。 出張等差遣一覧本文中に記載したもの以外で、侍従としての出張歴を以下にまとめた。
栄典位階
勲等・勲章
記念章
外国の栄典系譜基本、『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 388および「系譜事蹟」を参照した。
脚注原文
注釈
出典
サイト出典
参考文献書籍・論文
系譜・家譜
新聞・雑誌
報告書
記録史料
自治体史
行政文書官報
外部リンク
|