池田茂政
池田 茂政(いけだ もちまさ)は、幕末の大名。備前岡山藩9代藩主。岡山池田家宗家11代。位階勲等は従一位勲二等。 生涯常陸水戸藩主・徳川斉昭の九男(庶子)として天保10年(1839年)、水戸藩江戸屋敷で生まれた[1][2]。幼名は九郎麿[3]。のち斉昭より偏諱を授かって昭休(あきやす/あきよし)と名乗る[3]。 嘉永元年8月2日(1849年9月18日)、忍藩主松平忠国の養子となって忠矩(ただのり)に改名する[1]。嘉永3年9月12日(1851年10月6日)、従四位下・民部大輔に叙任する。同年12月16日、侍従に任官する。安政3年12月16日(1857年1月11日)、溜間詰となる。安政6年11月23日(1859年12月16日)、安政の大獄によって父の斉昭らが処罰を受けると、幕府の顔色を窺った忠国により廃嫡され、水戸徳川家に復籍する[1]。 文久3年2月6日(1863年3月24日)、岡山藩主池田慶政の婿養子となり、池田 修政(のぶまさ[1]/ながまさ)と名乗る。同年2月8日、慶政の隠居により家督を継いだ[1]。これは当時の岡山藩で、尊皇攘夷かただの尊皇を行なうかで藩論がまとまらなかったため、慶政が藩士の江見陽之進の進言を容れて、尊攘派の盟主的な存在であった斉昭の子を家督に就けることにより藩論をまとめようとしたためといわれる。藩主就任時に14代将軍徳川家茂の偏諱を授かって、諱を茂政に改める[1]。 藩主就任後は、父の斉昭の影響を受けて尊王攘夷を主張し、藩論を主導するとともに、兄の鳥取藩主池田慶徳とともに朝幕間を周旋した。立場としては、尊王攘夷の貫徹であり、また「天皇優位の公武合体」の実現ということを望んでいた[4]。そのため、将軍が朝意を奉じて攘夷を実行することを望み、文久3年8月、茂政は池田慶徳、米沢藩主上杉斉憲、徳島藩世子蜂須賀茂韶とともに参内して、当時真木和泉らが計画していた攘夷親征を中止すべきだと奏上した[4]。 一方で、長州藩に対しては友好的であり、八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊攘派が京都から追放された際には、朝廷に対し長州藩への寛仁の処置を懇願している[4]。また、元治元年2月にも、朝廷に毛利敬親・広封父子の寛宥の沙汰を要望し、幕府に対しては攘夷の奉勅を勧告した[4]。だが、こうした長州周旋に対し、幕府から、岡山藩は長州藩と手を結んで幕府に対抗しようとしているのではないかという嫌疑を受けることとなった[4]。かかる嫌疑の中で、茂政は長州藩の違勅の暴挙には反対し、勧告したが、この態度を藩内の過激尊攘派から因循と論難されることもあった[4]。 禁門の変後、茂政の長州に対する態度は変わり、周旋を断るに至った。第一次長州征討に際して茂政は長州藩への寛仁の処置を主張したが、勅命遵守の立場から、名目的に一宮付近まで出馬し、家老池田出羽を広島まで派遣するにとどめた[4]。第二次長州征討では、家臣の多くは出兵に反対し、茂政も同様であったが、結局、違勅の名を恐れ渋々備後路まで出兵することになった[4]。 慶応3年10月15日(1867年11月10日)、大政奉還にともない、朝廷から元尾張藩主の徳川慶勝らとともに上洛することを命じられる。王政復古の大号令後の慶応4年(1868年)、15代将軍だった兄の徳川慶喜追討の勅命が出され、岡山藩も東征軍に参加するように命じられる[1]。しかし、慶喜の弟である茂政は兄を討つための討伐軍に加わらず、3月15日に朝廷に対して病を理由に隠退・養子届けを出し、家督を鴨方藩主であった養嗣子の章政に譲って隠居する[1][3]。 維新後は弾正大弼に任じられ、能楽の復興に努めた[3]。明治32年(1899年)、61歳で死去した。神号は五十武彦茂政命。墓所は岡山県備前市和意谷池田家墓所。 経歴※明治5年(1872年)までは旧暦日付。
系譜
脚注外部リンク
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