烏丸光胤
烏丸 光胤(からすまる みつたね)は、江戸時代の公家。初名は清胤。徳川斉昭の外曾祖父。 概要公式には中御門宣顕の次男とされたが、実際には中御門宣誠の密子[1]である。享保16年(1731年)に叙爵を受け[2]、享保18年(1733年)10月に伯父の烏丸光栄の養子となる[3]。享保19年(1734年)に元服して従五位上に任じられ、以降侍従や弁官、蔵人を歴任して、延享元年(1744年)に従四位上に叙されて蔵人頭・右大弁になる[2][3]。同年12月に光胤に改名する[3]。延享3年(1746年)10月に参議に任じられ[3]、寛延元年(1748年)に正三位権中納言[2]、宝暦6年(1756年)に従二位権大納言に進んだ[2][3]。 桃園天皇の近臣として、天皇の和歌や書道などの学習に携わる一方、自身は竹内式部に神道や儒学を学んでいた。しかし、竹内の学説を巡る朝廷内の対立から宝暦事件が発生し、宝暦8年(1758年)7月に止官・永蟄居の処分を受け、2年後の宝暦10年(1760年)5月に落飾を命じられて卜山と号した[3]。なお、宝暦事件の処分が行われた過程を研究していた林大樹は、一条道香の日記(宝暦8年7月24日条)に竹内式部との関係を理由に謹慎処分を命じられた烏丸光胤らが桃園天皇に直訴するために作成した連名の内奏(「烏丸光胤等連署内奏書」)が引用されており、その中に朝廷の実権を掌握している摂家を排除して天皇に実権を取り戻すための具体的な方策が提案されていたことを指摘し、竹内式部門下を中心とする桃園天皇近臣と摂家の対立の結果、前者が「宮廷クーデター」を計画し、それを知った後者が桃園天皇に迫って処分を強要した、と分析している[4]。 安永7年(1778年)6月に永蟄居を命ぜられると、後桜町上皇に召されて歌道の御用を務めるが、2年後の安永9年(1780年)9月に病死した[3]。法号は竜泉院宗亀卜山で、太秦の法雲院に葬られた[3]。明治24年(1891年)に宝暦事件関係者に対する贈位によって従一位が贈られた[3]。 系譜
脚注
参考文献
|