池田慶徳
池田 慶徳(いけだ よしのり)は、幕末の大名、明治前期の華族。因幡鳥取藩第12代(最後)の藩主で、同藩初代藩知事。位階は従一位。 15代将軍となる徳川慶喜は同年生まれの異母弟、備前岡山藩主池田茂政は同母弟にあたる。 生涯水戸徳川家から因州池田家へ幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた水戸思想の主導者・水戸藩主徳川斉昭の五男(庶子)で[1]、母は側室の松波春子。幼名は五郎麿。元服して父斉昭より偏諱を受け昭徳(あきのり)と名乗る[注釈 1]。斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向」と評したようである。 嘉永3年10月29日(1850年12月2日)、鳥取藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。将軍徳川家慶より偏諱を受けて慶徳に改名、松平相模守を称した。家督を継ぐと藩政改革に着手し、藩校尚徳館を拡充して下士にも通学を許すなど学問を奨励し、藩内に水戸学が浸透した。民意を聞くことに努め、軍制の改革にも力を入れた。嘉永6年(1853年)に、江戸桶町千葉道場を開いた千葉定吉を剣術師範として召し抱えている。 文久政局に乗り出す文久2年(1862年)4月に薩摩藩主の島津久光が藩兵を率いて上洛し、朝幕間の周旋に乗り出す。これを機に鳥取藩でも慶徳の国事周旋を推進しようとする声が尚徳館教授方を中心に上がったが、慶徳にその気はなく、藩主側近の保守派は周旋方(推進派)に取り合わなかった。しかし、同年7月に長州藩主毛利慶親、土佐藩主山内豊範が相次いで入洛し、京都で尊王攘夷の機運が高まるとの報に接すると、国事周旋に乗り出す決意を固める[注釈 2]。 9月に朝廷が幕府に攘夷を促すための勅使派遣を決定すると、幕府の優柔を懸念した慶徳は10月15日に入洛して国事周旋の勅諚を受け、20日には敬親・豊範に続いて参内を果たした。そして東下周旋の命を受け、11月5日に江戸に着くと政事総裁職の松平春嶽や山内容堂・松平容保らと会談を重ねた。さらに、奉勅攘夷と決した幕議に対し、異議を唱えて将軍後見職辞任を表明し登城を拒否していた異母弟一橋慶喜の説得にあたった。 勅使を迎えた将軍徳川家茂が攘夷の勅諚を奉じ、その方策は翌春上洛して協議すると決したのを見届けると、慶徳は12月に再び入洛し、攘夷は幕府に一任して外藩は退京させるよう朝廷に働きかけた。明けて文久3年(1863年)正月には、攘夷期限を決定し、それまでに早急な武備充実に努め幕府主導で挙国一致体制を整えるよう幕府に建白する。 幕府への不満と攘夷親征への危惧慶徳は、2月に朝廷から摂海守備総督を命じられるなど京坂で活動する間も、幕府に攘夷期限の決定を促していたが、大坂湾(摂海)や藩地の沿岸警衛策を講じるため3月16日に帰国の途に就いた。この年から翌年にかけ、鳥取藩では沿岸9カ所の要地に西洋式の台場が築造された。 その後も過激尊攘派から期限決定を迫られ続けた幕府は、4月23日に至り「攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべき」と布告したが、期限前日の5月9日に生麦事件の償金を横浜の英国公使に支払い、慶徳を憤慨させた。上洛中の家茂の名代として江戸にあった実兄の水戸藩主徳川慶篤も償金支払いの経緯に関わっていたと伝えられ、「水戸」に連なることで声望の高かった慶徳の立場を苦しいものにした。挽回のため攘夷路線の強化を求める周旋方と慎重論を唱える保守派の確執も激しくなっていく。こうした中、大坂の天保山を守備していた鳥取藩は6月に大坂湾に進入した英国船を砲撃した(命中せず、英国船は無事脱出)。 幕府と朝廷から上洛を求められた慶徳は、6月27日に本圀寺に入った。この時期、幕府の穏便な姿勢に対抗し日本全体での攘夷戦争遂行を望む長州藩が、攘夷親征を天下に号令するよう朝廷に働きかけていた。家茂と幕兵が6月半ばに東帰したことも好都合だった。攘夷親征の件について諮問を受けた慶徳は、外国が畿内に襲来したら、まずは幕府が防戦に尽力し、次に公家や諸藩が様々に戦術を尽くすなど親征以前に段階を置くべきことを建白した。そして、7月に入洛した阿波藩世子の蜂須賀茂韶および 同母弟の岡山藩主池田茂政、4月来在洛中の米沢藩主上杉斉憲と連携し、攘夷親征派に対抗する在洛諸侯集団を形成した。慶徳の論は従兄の右大臣二条斉敬ら朝廷首脳の支持を得、諸侯集団は朝議への参与を許されるまでになる。 それでも長州が藩兵を入洛させたこともあり、朝廷内ではなお親征派の勢いが強く、要求は緩まなかった。一方、孝明天皇や朝廷首脳が期待を寄せる薩摩・越前などの挙兵上洛はなかなか実現しなかった。そこで慶徳は、京都守護職松平容保の会津藩や在京諸藩による天覧馬揃えを朝議に諮った。天皇は大いに喜び、会津藩兵による馬揃えが7月30日、会津・鳥取・岡山・米沢・阿波の5藩による馬揃が8月5日に催された。これは、親征派・反親征派双方に対する示威であるとともに、やがて生じることになる事態に備えた演習の役割も果たすことになった。 八月十八日の政変と本圀寺事件攘夷親征派がこれで諦めることはなく、8月13日、大和行幸の詔が渙発された。大和国の神武天皇陵・春日大社に行幸、しばらく逗留して親征の軍議をなし、次いで伊勢神宮に行幸するということだった。慶徳ら4侯は、諸侯が反論するよう天皇が望んでいると斉敬から事前に伝えられており、参内して天皇に親征中止を強く訴えたが、親征派の圧力に屈した天皇は攘夷親政を決定した。 このとき、在京兵力の少ない薩摩藩は会津藩を引き込み、攘夷親征派への対抗クーデターを画策する。8月18日、クーデターが決行されると阿波・岡山・鳥取・米沢も会津に次ぐ兵力を動員し、三条実美ら親征派の公家や長州の勢力を朝廷から一掃した(八月十八日の政変)。 この政変の前日、京都留守居役河田左久馬ら22名の鳥取藩士が「主君の勤王の志を妨げ、天下の汚名を蒙らせた」として慶徳側近の黒部権之助、高沢省己、早川卓之丞の3名を本圀寺において惨殺し、斬奸状で名指しされたもう一人の加藤十次郎も翌日自害するという事件が起こった(本圀寺事件)。尊攘派へ傾倒した河田らは、長州を支援する意見などを持っており、親征阻止に動く自藩の姿勢に憤った結果だった[注釈 3]。 政変に参加し成功させた慶徳らだったが、長州に対しては寛大な処置を求めた。やがて、尊攘激派の没落によって開国論を明確にした薩摩の島津久光や越前の松平春嶽ら開明派諸侯が再び上洛に動き出すと、これに対抗しえないと見た慶徳ら在洛諸侯は相次いで帰国していった。 その後、慶喜が横浜鎖港を主張して鎖港に否定的な久光・春嶽らに対抗し、孝明天皇の信任を得て一会桑体制を構築したが、慶喜の期待にもかかわらず慶徳・茂政兄弟が再び自ら京都政局に乗り出すことはなかった。 明治期の慶徳慶応4年2月3日(1868年2月25日)、慶徳は新政府の議定に就任する。翌明治2年2月3日(1869年3月15日)、従二位・権中納言に叙される[2]。5月15日(新暦6月24日)、議定から麝香間祗候に移る。また、戊辰戦争では東北地方に出兵している。6月2日、戊辰戦争の戦功賞典として3万石を賜った。6月19日、版籍奉還により鳥取藩知事に就任した。 鳥取藩の財政難などのこともあり、知藩事の立場にありながら廃藩置県を自ら明治政府に提案した。明治7年(1874年)7月14日、廃藩置県により免職となった。明治8年(1875年)5月27日に隠居し、次男の輝知に家督を譲った。 明治10年(1877年)8月2日、肺炎のため神戸で死去した。8月18日、正二位を追贈された[3]。墓所は弘福寺、大正14年(1925年)に多磨霊園、平成15年(2003年)に鳥取市内の大雲院に移転改葬された。 明治40年(1907年)5月10日、特旨をもって位階追昇された。贈従一位[4]。 系譜
偏諱を受けた人物以下は「昭徳」だった時から生涯諱に使用した「徳」の字を偏諱として受けた者たちである。うち池田仲諟(岳父清直の兄)の子2人(徳定と徳澄)に関しては、慶徳の養女を妻としている。
脚注
参考文献
外部リンク
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