池田徳定
池田 徳定(いけだ のりさだ)は、因幡若桜藩(鳥取西館新田藩)の最後の藩主、華族(子爵)。 生涯嘉永元年(1848年)11月25日、第8代藩主・池田清直の兄・池田仲諟の次男として生まれる。文久2年(1862年)に兄で第9代藩主の清緝が死去したため、その養子として家督を継ぎ、徳風(のりかぜ)と改名する。のち、さらに徳定と改名した。「徳」の字は、義父でもある本家の鳥取藩主・池田慶徳からの偏諱、「定」の字は7代藩主・定保まで用いられていた通字である。 幕末期は佐幕派として御所警備を務め、義父・慶徳の補佐に努め、元治元年(1864年)の禁門の変では慶徳の名代として軍を率いて上洛し、禁門の変にも参加した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、鳥取藩とともに新政府側に与して伊勢桑名藩と戦った。明治元年(1868年)12月10日、藩名を若桜藩と改名する。明治2年(1869年)6月、戊辰戦争の恩賞として6000両を与えられた。 明治3年(1870年)3月、鳥取藩に合併されて若桜藩は廃藩となった。明治17年(1884年)、華族令により子爵に叙せられる。明治43年(1910年)6月21日に死去した。享年63。 家族
子供は常子との間に4女1男
脚注
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