池田定常
池田 定常(いけだ さだつね)は、江戸時代中期から後期にかけての大名[1]。因幡国若桜藩5代藩主[1]。官位は従五位下縫殿頭。号は冠山[1]。松平冠山と呼ばれることもある。 生涯1000石の旗本・池田政勝の次男[1]として誕生した。幼名は鐵之助[2]、恒次郎[3]。安永(1773年)、先代の若桜藩主・池田定得が嗣子無くして病死した。定得は遺言として、旗本の池田政勝の子・定常を跡継ぎに指名していたため、それに従って定常が家督を継ぐこととなった。 定常は謹厳実直で聡明だったため、小大名ながら諸大名からその存在を知られた。また、教養や文学においても深い造詣を示し、佐藤一斎や谷文晁、塙保己一、林述斎らと深く交流した。そのため、毛利高標(佐伯藩)や市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳の間の三学者」とまで呼ばれた。享和2年(1802年)11月、家督を長男・定興に譲って隠居した。隠居後も学者や文学者と交流し、著作活動や研究に力を注いでいる。 定常は政治家としても有能であるが、どちらかというと文学者として高く評価されている。定常の著作である『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』は、当時の儒学や古典、地理などを知る上で貴重な史料と高い評価を受けている。寛政8年から翌9年に記した巡見日記が『駿河めぐり』として中川芳雄により翻刻されている[4]。文政6年には、自らの前世を語った勝五郎という農民の少年の元を訪れ『児子再生前世話』(勝五郎再生前生話)を記した[5]。 天保4年(1833年)7月13日に死去した。享年67。法号は停雲院冠山。墓所は東京都墨田区の弘福寺、鳥取県鳥取市国府町奥谷の鳥取藩主池田家墓所。 人物父の政勝は定常が幼くして若桜藩の藩主になったとき、教育係の神戸与五郎と高橋平五左衛門の2人に、「大名になったからと言って甘やかすな。定常を大名と思わず、旗本と思って厳しく教育せよ。贅沢などはもってのほかだ」と言い聞かせている。定常は父の言葉をよく守り、死ぬまで大名だからといって贅沢な暮らしはしなかった。 系譜
脚注
参考文献関連項目 |