高辻修長
高辻 修長(たかつじ おさなが)は、江戸時代後期の公家。維新後は華族(子爵)、宮中顧問官、東宮侍従長。漢文学者。少納言・高辻以長の子。官位は正二位。勲一等。 出自朝廷で儒道・文筆をもって奉仕し、代々文章博士を世襲する堂上家の高辻家に生まれる。本姓は菅原姓で半家に属し、紀伝道を代々伝える。江戸期の石高は200石で、屋敷は新烏丸通丸太町上ル(現在の京都市中京区)にあった。この京都時代の墓所は浄福寺と常照院にあった。 経歴天保11年(1840年)、半家の高辻以長の子として誕生。母は中院通知の娘・知子。幼名は興麿。 安政2年(1855年)2月17日、従五位上に叙される。安政4年(1857年)1月25日に正五位下となり、安政5年(1858年)10月28日に少納言に任じられ、12月19日より侍従を兼ねる。安政6年(1859年)4月24日に従四位下となり、万延元年(1860年)12月4日より文章博士を兼ねる。文久2年(1862年)1月5日に従四位上となり、文久3年(1863年)1月22日より大内記を兼ねる。 元治2年(1865年)1月5日に正四位下となり、慶応2年(1866年)4月25日に大内記を辞する[1]。同年8月30日、廷臣二十二卿列参事件に参加し、差控を命じられた[2]。明治元年(1868年)9月14日に従三位となる[1]。 明治2年(1869年)から明治17年(1884年)まで明治天皇の侍従を務める。この間、アメリカで岩倉使節団に随行した[3]。その後、明宮(大正天皇)の御用掛、東宮亮、皇太后宮亮・帝室会計審査官を経て、明治31年(1898年)より東宮侍従長、明治35年(1902年)より宮中顧問官を務めた[2]。大正10年(1921年)6月20日、薨去。享年82。 人物江戸時代後期、「万延」→「文久」と、その次の「文久」→「元治」に改元する際には「令徳」を二度提案し、「元治」→「慶応」に改元する際には「平成」を提案するなど、高辻が元号の候補を提案した記録があると伝えられる[4]。 栄典系譜脚注
参考
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