常照院
妙光山 常照院(みょうこうざん じょうしょういん)は、佐賀県佐賀市本庄町鹿子にある日蓮宗の仏教寺院である。 佐賀藩主鍋島氏の藩祖以来の外戚で、代々重臣をつとめた石井氏の菩提寺であり(開基檀越)、鍋島氏の准菩提寺・祈願寺でもあった。 また、当山境内は戦国時代に石井氏の居城であった飯盛城の跡地とも伝えられる。 歴史永享元年(1429年)9月、肥前国小城郡の分郡国主千葉氏の戚臣で、当地の領主であった石井越後守兼式部大輔忠國(千葉介の玄孫)が、開山に本国寺門流本立院日字上人大徳を招聘し、開基したと伝えられている。創建当初は「本善寺」と称した。開基した石井忠國は、日蓮宗中山門流の外護者にして下総国中山の総本山法華経寺の俗別当をつとめた千葉胤貞の曾姪孫にあたり、熱心な門徒であった。 創建当初、石井氏は、小城郡主千葉氏の旗本・吏僚であったため、千葉城下の「石井屋敷」を本拠としていたが、忠國は千葉家中で立身し、家老に出世し、当地に所領を得て、嫡男式部大輔忠保の代に、当地に土着。本善寺付近にあった飯盛城に本拠を移転させたため、当山も益々発展したという。 忠保の曾孫兵部少輔常延の代の元亀元年(1570年)、飯盛城を拡張するために、本善寺を集落の南方に移転させたが、天正8年(1580年)に常延の逝去に際して旧地に復した。 その後、石井氏は、鍋島直茂により、蓮池城を与えられ、そちらに本拠を移した後、佐賀城下へ再移転し、かつ知行替えにより当地を去ったことから、寺は一時期衰退した。 元和元年(1615年)に至り、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂が、外祖父常延の菩提を弔うため、寺を再興し、65石5斗の寺領を寄進し、鍋島氏の准菩提寺・祈願寺となした。その際、常延の法名である「常照院殿常祝日教大神祇」に因んで「常照院」と改められた。 施設
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